2020年3月17日火曜日

『100分de名著』のアーサー・C・クラーク特集の第三回をたまたま見て、思った。原作は一つも読んでもいないのに、映画の『2001年宇宙の旅』だけのイメージで、アーサー・C・クラークを買いかぶりすぎていた、と。

第三回で取り上げられていた作品(タイトルは忘れた)が、荒廃した地球上でシェルターのような都市を作り、その中だけで生きている、或る意味で「不老不死」の人類と、そのシェルターの外の「荒廃した」世界で暮らす、寿命は普通だが、テレパシー的な能力を持つ人類とが、お互いの存在に触れないように生きているというような設定の話。設定が荒唐無稽なのは構わない。ガッカリしたのは、作品の根底にある思想の凡庸さ。

まず、「不老不死」の人類だが、これは、科学力によって寿命が1000年に伸ばされていて、しかも寿命がくる前に、その人の全データを保存して、1000年後に別の体の人間として蘇らせる、という仕組みで生きている。或る個人の全存在データを保存し再利用するのは、まさにアナトーさんの「人工人格」と同じ。というか、こういうアイディアは誰でも思いつくもので、そのこと自体はどうでもいい。引っかかったのは、そうやって人工的な「輪廻転生(しかも前世の記憶を持つ)」を繰り返して何十億年も生きている人間の、言動・振る舞い・発想が、やっぱり寿命百年足らずのそれと何も変わらないところ。

同様に、テレパシー的な能力を持って、ということは擬似的に「複数の体に一つの魂状態」なのだろうはずの、なにやらスピリチュアルな側の人類も、やっぱりテレパシーも何もない普通の人間と言動や振る舞いが何も変わらない。「人工輪廻転生」側もテレパシー側も、要は、実質、精神としては死ぬことのないひとりの人間ということのはずだが、それにしては恐ろしく愚か、ということ。愚かというのは、まあ言い過ぎで、現実の現代人並みということ。まずこれにがっかりした(がっかりしたところは他にもいくつもある)。

つまりこれは、作者の思想が「凡庸」だから、ということに尽きる。どんなに超越的な登場人物たちを設定をしても、物語を語る当の作者のアタマが「普通の人間」なので、実際の物語は、単に、現実社会が抱える問題の暗喩(metaphor)にしかならない。これをアナトー式に言うなら、「生業」をテーマにしているつもりで、実際には「家事」のやり方をあーでもないこーでもないとやって…