2020年6月18日 木曜日/曇り時々雨/肌寒い
現代の医学なら「Elephant Man」は治療できるのだろうか? 無理な気がする。あと、John Merrickが観劇したのは「長靴を履いた猫」?
今調べたら、生まれた時は普通の子供で、学校にも通ったらしい。思春期辺りから症状が進行した模様。
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芸能人が俳句だの生け花だのをやって、その道の「先生」が出来上がった作品に順位をつけるハマちゃんの番組がある(ちゃんと観たことは殆どないが)。で、さっきチャンネルを切り替えた時にたまたまそれが映って、野性爆弾のくっきーの俳句が「添削」されていた。「蝉は土 腰掛け黒汁 腹ちぎれ」という俳句。くっきーが座ってる場所を見るとどうやら最下位に評価されたらしい。だが、俳句の「先生」が添削したあとの俳句よりも、くっきーオリジナルの「黒汁(珈琲のこと)」俳句の方が、「俳句」としてはともかく、一個の表現物として断然スバラシイのは明らかで、そこに「表現」というものの本質を垣間見た気がした。
漱石が『草枕』の中で主人公に「お茶」すなわち「茶道」について語らせているのを思い出す。すなわち、「流儀」のあるお茶というのは、風流の分からない連中が、機械的に動作だけを真似て、風流ぶってるだけなんだ、というアレ。
自閉症者は、他人の感情が理解できないのがその特徴だが、高い知能を持つ自閉症者すなわちアスペルガー症候群の者やサイコパスなどは、人間の感情というものを、自身の体験として理解するのではなく、他人の反応から合理的に理解する。極端なことを言えば、可愛がっていた猫が死んでしまったときに彼らが泣くのは、悲しいからではなく、「こういう状況では、人は泣くものだ」と合理的に理解しているからだ。
「流儀」でお茶の「風流」を再現するのは、この「こういう状況では、人は泣くものだ」と同じ手法。自分の内側に理由があるのではなく、外側から規則として制御されているうちにソレッポクなる。しかし、やってる当人の中身は大抵はカラッポで、なぜそんなことをするのかの「意味」は分かってない。やれと言われてるからやってるだけ。
気をつけて欲しいのは、ここで「自閉症者」に喩えているのは、くっきーの方ではないということ。表現者としてみた場合、「自閉症者」なのは、「先生」や「特待生」の方。彼らは、「俳句」という「曲芸」が巧くやれるように仕込まれた虎や熊と同じ。