2018年11月2日金曜日

現の虚 2014-1-8【殺人事件の被害者がいつも善良とは限らない】


猫族は少ない魂がそれぞれたくさんの体を〈逆共有〉している。だから、道を歩いてるあの猫と屋根の上にいるその猫は、体は別でも中身は同じの場合がある。一つの魂にたくさんの体だから、同時に複数の場所に存在する。神的存在だとも云える。悪魔的存在だとも云える。それが我々猫族だ。

一つの魂で、たくさんの体を共有しているということは、一匹の猫が死んでも、たとえばまだ生きてる猫や新たに生まれた猫に、その死んだ猫の魂がそのままで宿っているということ。人間の云う輪廻転生とは違う。何度も云うが、一つの魂でたくさんの体だから。

まあ、一つの魂が一つの体しか持たない人間にはピンとこないだろうけど。

ともかく、猫はたくさんの体験を広く共有しているので、人間のマヌケぶりをけっこう色々とお見通しだ。漱石先生の「我が輩」が、人間について深い洞察を持っていたのはそういうわけだよ。

たとえばこの前も、テレビのニュースで知ってるだけのある殺人事件について、人間たちは、被害者のことを無条件で気の毒がり、加害者のことは悪魔のように云っていたけど、呑気なものだ。あの殺人事件、実は、悪魔と呼ぶなら、それは殺された被害者の方なのさ。それが真相。別に我々猫族だけが知ってる隠された事実じゃない。直接の関係者はみんな知っている。知らないのはテレビで報道するヤツらと、そのテレビを観るだけの、いわゆる部外者だ。

人間は、小説や映画で散々〈復讐に燃えた正義の主人公に殺される極悪人〉という存在を目にしてるのに、実際の殺人事件になると殺された方を無条件で気の毒な被害者だと思ってしまう。特に、殺されたのが若い女で、殺した方がその元恋人とかだったりしたら、あっという間に、イカレたストーカー男の魔の手にかかったカヨワイ女性という構図を作ってしまう。それはきっと、人間に生まれつき備わってる信仰なんだと思うね。

もちろん、実際、気の毒な被害者とイカレタ加害者っていう殺人事件もたくさんある。でもそうじゃないものも割とある。にも関わらず、殺人事件のニュースを観て「怖いわねえ」と云うときの人間は、殺されるという事実と殺人者の存在だけを指してそう云ってる。殺された被害者こそが、真に恐ろしい存在だということだってフツウにあるのに、そんなことは想像すらしないで、いい気になって殺人犯のことをあれこれ批評するマヌケ面。

一つの魂に一つの体の人間は、何も見えてやしないのさ。