「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月28日水曜日
現の虚 2014-3-8【毛の仮面】
腹の手術跡は痛くも痒くもない。まだ麻酔が効いているのだ。だが、痛みがないからと云って傷が癒えたわけではない。さっき切って、さっき縫ったばかりなのだから。激しく動けば、血も出るし、よく分からない汁も出るだろう。
俺は腹の包帯を意識しながら、連絡通路をノロノロと進んだ。
毛むくじゃらの仮面を被った学生服が壁にもたれて座っていた。黙って前を通り過ぎると、すっと立って追って来た。ノロノロ歩きの俺はそれを振り切れない。
子供は永遠に背負わされる。
仮面の学生服は云った。俺は無視した。仮面は構わず続ける。
子供は生きる意味を背負わされる。大人にとって生きる意味はいつも自分の子供だから。大人は他に生きる意味を見つけられないから。そして、だけど、子供には生きる意味なんか必要ない。
俺は、横を歩く仮面の演説人をちらりと見た。まっすぐ正面を向いて喋っている。
大人が生きる意味を自分の子供にしか見いだせないのは、最初から意味なんか存在しないから。生きる意味なんてものはモトからない。それは人間の大人に限った話じゃない。すべての生き物は、意味の前に、まず、そして既に、生きている。地球の環境が生き物に都合よく出来ているのはなぜだろうと考えるのが愚かなのと同じ。
俺はつい反論したくなって、こう思った。子供には未来や可能性がある。世代を重ねていけば最終的には究極の存在にまで到達しうる潜在力があることが、生き物が子供を産み続け育て続ける意味なんじゃないのか。たとえば、地球の生き物が単細胞生物から人間にまで進化したように。そして更にその先にと。
仮面の学生服が立ち止まった。俺もつられて立ち止まった。仮面の口が赤く大きく裂けてニカッと笑う。
生き物がどうなろうと、そんなこと、生き物以外にはどうだっていいこと。そして、この宇宙のほぼ全ては生き物以外で出来ている。究極という状態は、人間という生き物の内側にしか存在しない「意味」から生まれるもので、生き物以外にはそんな状態はない。つまり、宇宙にとっては、全ての状態が究極であって、また、どんな状態も究極からはほど遠い。宇宙にも始まりや途中や終わりがあると思うのは人間が生き物だから。でも、そんなものは宇宙にはない。ただ「今」と呼ばれる実在があるだけ。その「今」がどんな状態であっても、それは前でも後でも始まりでも終わりでも途中でもない。
俺は、手術跡が痛み始めた。きっと変な汁も出ている。