「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月19日月曜日
現の虚 2014-3-4【洋式便器の赤ん坊/先の者が後に、後の者は先に】
洋式便器の中に仰向けの赤ん坊。男の子。裸なので見ればわかる。頼りない
髪の毛と、きつく握られた両手。そして梅干しのような赤い皺だらけの体。紛れもなく生まれたて。そんなモノが泣きもせず、モゾモゾと洋式便器の中で動いている。ほんの一瞬、レバーを捻って流してしまおうと思ったがやめた。どうせ水なんかじゃ流れない。ところが当の赤ん坊がそれを望んだ。
さあ、流したまえ。ひと思いに。
いろんな意味で無理だ、と答えると、赤ん坊は、分かっている、と頷いた。それから、昔のような汲み取り式ならこんな事態にはならなかったのだがね、とため息をついた。文明の利器も善し悪しだ、と更に付け足す。
もしかしたら、おまえがあの円太郎なのか?
生まれて間もないのだ。私に名などないよ。赤ん坊は力なく笑い、そんなことより、と俺を黙らせた。赤ん坊が云う。
君は靴を履いてないが、私は、靴どころか、何一つ身に付けていない。丸裸というやつだ。それは、私がつい先ほど生まれたばかりだということを示しているわけだが、これには、もう一つ、別の意味がある。分かるかね?
俺が何とも答えないでいると、赤ん坊は口から濁った液体をドロッと吐いて、ここでは先の者が後になり後の者が先になるのだよ、と云った。赤ん坊が吐いた濁った液体は口の端から頬を伝って頭の裏に消えた。
今のは新約聖書の一節だ。それくらい俺も知っている。
そうかね。しかし意味するところはまったく違う。
赤ん坊はそう云って、また濁った液体を吐いた。それから、君、ちょっと、水を流してみてくれないか、試しに【小】の方で、と云った。俺は云われた通りにした。水がジョロジョロ出て小さな頭と背中を濡らした。濡れた当人はヒョオっと楽しげな声を上げた。
冷たいな。思ったより冷たいよ。しかし、いい気持ちだ。
その時、ドアを叩く者がいた。俺は反射的に便器の蓋を閉める。
すいません。このトイレ、使用禁止なんですよ、と女の声。俺はちょっと迷ってから返事をし、外に出た。いたのはピンクのゴム手袋の清掃員の女。愛想笑いをしながら、まだ使ってないですよね、と訊く。俺が頷くと、よかった。でも、別に壊れているわけじゃないんですよ、と云って、いきなりタンクのレバーをにグイッと捻った。勢いよく流れ出す水の音。俺は水が溢れ出すのを見越して後ろに下がった。それを見て清掃員の女が、大丈夫ですよ、と笑う。
蓋さえ開けなければ、何でもありませんから。