「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月14日水曜日
現の虚 2014-3-1【靴がない】
暗い部屋のベッドの上で目を覚ますと、床から大きな樹が生えて天井全体に枝を広げていた。足を降ろすと床が冷たい。履物が要る。ベッドの下を探ったが何もなかった。
靴があったはずなのに。
枕元のインターホンにスイッチが入り、知らない女の声がひそひそと話しかけてきた。
起きましたか。ではすぐにこちらまで来て下さい。2階のナースステーションです。
俺は廊下に出て、階段を降りた。素足に床が冷たい。ともかく履物が要る。二階まで降りると、廊下の観葉植物の鉢の陰に、身なりの良いアヤシい男が俺を待ち伏せていた。俺は気付かれないようにそっと引き返し、踊り場まで戻った。踊り場の壁に、ガムテープに赤いマジックで【ナースステーション抜け道→】と書いたものが貼ってあるのを見つけた。矢印の指す方を見ると、通り抜けられる隙間があった。俺は隙間を抜けて、別の廊下に出た。廊下の行き止まりに小荷物専用の小型エレベータが見えた。ガムテープに赤いマジックで【ナースステーション直通】の文字。
あれに乗れということか。
廊下を中程まで進んだところで、俺を追うようにナニカが背後の隙間をすり抜けて現れた。俺はソレと目が合った。人間の子供に似たソレは、鬼ごっこの鬼のように俺に微笑みかけた。つかまったらオシマイだと直感した俺は、廊下を走りだした。予想に反して、ソレは俺を捕まえることには熱心ではなかった。俺が走り出したのを見てもニヤニヤ笑いでノソノソと歩き続けていた。俺が体を縮めて小荷物用エレベータに潜り込んだとき、ようやく走り始めたが、それではもう遅い。
エレベータは二階のナースステーションの中に直接着いた。
来ましたね、と夜勤の看護師が云った。ゆうべ遅くに私の母が亡くなりました。夜勤の看護師はそう云いながら俺を【処置室】と書かれた小部屋に連れていった。でも、あなたのせいで、私はここを離れるわけにはいきません。
処置室の一番奥に、白く【消化器】と書いた赤い金属の箱があった。看護師は微笑み、その中に俺の靴があると云った。俺は箱を開けた。中は、大きな樹の根が天井から生えて暗い下に伸びている別の部屋になっていた。おそらくこの部屋に床はない。靴は取り戻したいが入るのはとても危険だ。そう思った次の瞬間、俺はバランスを崩して中に転がり込んだ。実はうしろから押された気もする。
ともかく。
俺は大きな樹の根に何度もぶつかりながら暗い中をどこまでも落ちていった。