「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月8日木曜日
現の虚 2014-2-5【球押金亀子とピュタン・サフェシエ】
自信満々にはふたつある。全知であるか、無知であるか。例えば、日本の第十一代将軍徳川家斉は、たった一人で四十人の側室に全部で五十五人の子供を産ませ、男として自信満々だったらしいけれど、産んだ女性の側からすれば、自分の子供はたった一人か二人しか産ませてもらってないわけで、そういう点から云うと、別に大した男じゃない。しかし、その事実に対して全く無知だったから、徳川家斉は男として自信満々でいられた。
黒い帽子の昆虫学者(日本語ペラペラのフランス人)は自信満々で喋り続ける。
真に全知であることは、もちろん何者にとっても不可能。私が自信満々なのは、全知を限定しているからだよ。ごく限られた範囲に於いてなら全知も可能だから。そのごく限られた範囲が私にとっては昆虫ということになる。その私が云う。君が探しているという黒い虫は間違いなくタマオシコガネだ。漢字で書けば、こう。
昆虫学者はテーブルの上に丁寧に紙ナプキンを広げて伸ばし、紙を破らないように慎重に、万年筆で「球押金亀子」と書いた。
これで「タマオシコガネ」と読む。明治時代の作家のような字並びだね。球は玉でもかまわないけど、私は球のほうが好きだよ。タマオシコガネについては本も書いた。自分の家の庭で観察したのさ。タマオシコガネも私も、その本のオカゲで世界的に有名になった。大事なことは、人間は非常に限定した範囲のことなら全知でいられる。そして、その全知が自信になるということ。それは、徳川家斉のような無知ゆえの自信とは全く違う本当の自信なのだ。
黒い帽子の昆虫学者はストローを鳴らしてアイス珈琲の残りを飲んだ。グラスの氷がカチャンと鳴る。
しかしこの辺はカイハツが進んでしまったから、もうタマオシコガネはいないだろうね。そうだ。私の家に来ればいい。私の家の庭にはまだたくさんのタマオシコガネがいるはずだから。
テーブルの上で「の」の字に寝そべっていた猫が頭を上げて、それは無理、と云った。次の試合がもうすぐ始まるから。
じゃあ、あれだ。私が取って来てあげるよ。私にその瓶を預けてくれたら、それに入れて来てあげる。それでどうだい?
それがいいと思って、俺が鞄から瓶を取り出し、笑顔の昆虫学者に渡そうとすると、猫が遮った。
瓶は誰にも渡しちゃいけない。瓶は大事なものだ。
俺は瓶を鞄に戻した。昆虫学者は、それはザンネン、と云った後、すごく小さく、ピュタン・サフェシエ、と呟いた。