「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月30日金曜日
6-8:ヒト・コミュニケーション
生命現象ではない知性現象のコミュニケーション方法は電磁波さ。それは物理のモットモ本質的な通信手段でもある。
ヒトが外界との交信に用いる可視光だって電磁波だが、周波数の小さい「弱い」電磁波だから有効範囲も適用範囲も極限定的。また、極限定的で問題はない。そもそものヒトの活動範囲が極限定的だからね。
ヒトの使う音声だって音波という波だ。ヒトの「言葉を声に出し、それを耳で聞く」といったタグイの行為は、電磁波通信のママゴトのようなものだ。安上がりで便利だが、どう取り繕ってもザンネンなシロモノ。砂のご飯や泥団子のハンバーグや濁り水の味噌汁と同じで、ソレラシキコトはやってはいるけれど、決してホンモノじゃない。
[ヒトの社会]というものが、結局ウマク行かないのは、ヒトが、可視光という極限定的な電磁波や、共通点は波であるということだけで、通信手段としては全くのママゴトに等しい音波に頼った情報のやり取りしかできないからだよ。
仕方がないよね。ヒトの脳も感覚器官(目耳鼻口皮膚)も、光年単位の射程を持つ「強い」波を直接やり取りするようにはできてない。そもそも有機物質ってソウイウモノを言う。ヒトはガラス工芸品で、強い電磁波は、そのガラス工芸品を作るための強い炎のようなものだ。ガラス工芸品は、強い炎から離れて、「冷えて」いることで、初めてカタチと機能を保てる。
こんなふうにも言える。
ヒト同士のコミュニケーションは、知覚と意識を行き来する「循環翻訳」のようなものだ。或る知覚(その出どころは外部からでも内面からでもかまわない)を受け取ったAは、自身の意識を使ってそれを「翻訳」したのち、それを、音声情報でも視覚情報でも、とにかく[知覚の対象になるもの]として、次に控えるBに向かって発信する。するとBはそれをまず知覚として受け取り、そののち自分の意識を用いて「翻訳」する。そして、先のAと同じように[知覚の対象になるもの]として次のCに発信する。以後のその繰り返し。
これではまるで[液体の漏れない持ち運べる容器]を思いつけないせいで、液体という液体を全て凍らせて持ち運び/やりとりしているようなものだ。凍らせる液体がただの水ならまだマシ。ワインやスープなら悲惨なことになるだろう。凍結と解凍のたびに成分変質が起きるのは間違いないからね。いや、ただの水だったとしても、そのやり方が、ナニカ決定的にザンネンなのは分かるはず。