「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月21日水曜日
現の虚 2014-3-5【物腰の柔らかい男】
清掃員の女がそこでそれらしい靴を見たと云う部屋をやっと見つけ、さて入ろうとしたら、身なりのいい男が入り口の入ってすぐの所に後ろ向きに立っていて、完全に行く手を塞いでいる。これでは中に入れない。行く手を塞ぐ身なりのいい後ろ向きの男は、俺からは見えない部屋の中の誰かに、物腰柔らかく話し掛けている。
俺は黙って待った。というのも、人の気配というのは、実は、人間の耳には聞こえない超低周波音のことだと教えてもらったことがあるからだ。人間の体からはその手の超低周波が常に出ていて、それを音ではなく皮膚で感じ取ると、例えば背後にいる人の気配になる。つまり、極近くに人間が居れば、人間は目で見なくても、耳で聞かなくても、鼻で嗅がなくても、霊感が有るとか無いとかに関係なく、誰でも普通に分かるのだ。だから、俺は体中から超低周波を出しながら黙って待った。
ところが、物腰の柔らかい後ろ向きの男は、俺の存在に全く気付かない。そして、部屋の中の誰かにこんなことを話し始めた。
ご存知ですか。あらゆる哺乳類は、2億5千万回息を吸い、2億5千万回息を吐いたら死ぬのです。ネズミもゾウもヒトも同じ。人間はよく、自分がいつ死ぬかは分からないと云いますが、それは違うのですよ。これまで何回息を吸ったかを記録しておけば、あと何回息が吸えるかが分かる。そうすれば、簡単なかけ算と引き算で、いつ死ぬかも分かるわけです。もちろん、2億5千万回を数える前に死んでしまうこともあるでしょう。しかし上限は2億5千万回です。実に具体的な数字です。現在の技術力なら、人間の呼吸回数を自動でカウントする装置を作るのはそう難しくはありませんよね。ですから、そういう装置を作って、生まれたばかりの人間に取り付ければ、誰でも呼吸の残り回数が分かり、人生の残り時間も分かるようになります。いや、実はそういう装置はすでにあるのです。そしてそれは、実際、生まれたばかりのあなたにも取り付けられたのです。ごらんなさい。この数字があなたの残り呼吸回数です。ほら、分かるでしょう。1万回を切ってます。1万回というと多そうですが、時間にするとあっという間ですよ。2秒に一回息を吸ったとして2万秒。2万秒というのはほんの6時間足らずですからね。つまり、夜明け前にはあなたは死ぬのです。ですから……
そこで、物腰の柔らかい男はゆっくりと振り返って俺を見た。
靴はもう必要ないのですよ。