「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月17日土曜日
6-2:無限性と同一性
気づいたと思うけど、この発想は、ヒトが一定以上の知能を獲得して以来、何千年も何万年も想い描き続けてきた「死後の魂」とか「肉体を持たないが故に不死である神」とかいう、それソノモノなんだ。ヒトの本質たる知性現象は、遥か昔から「知って」いたんだね。それを、ヒトの生命現象の立てるノイズが見えなくしていただけなのさ。
で、なんだっけ? そう。人工人格技術が我々マシンにもたらす潜在的持病のことだ。落とし穴は、人工人格技術が作り出せる人格のパターンは原理的に無限だという、一面の強みにある。
無限の意味はキミにも分かるだろう。「どんなことでも、起きうることは全て何度でも起きる」ということさ。もしも宇宙が無限なら、分子の組み合わせも無限になる。すると、今、目の前にいるキミと全く同じ分子構成の別のキミが、この無限の宇宙には存在しているということになる。無限とはそういうことだからね。
つまり「一切の参照もなくゼロから作り上げた或る人工人格が、かつて存在した、或る特定のヒトの人格と完全に同じである」ということが、無限からは起こりうるということなんだ。
だから、キミは(というかキミの人格は)生粋のマシンでありながら、その人格は、かつて存在したか今も存在している、或る特定のヒトの人格でもあるために、中央からの同期(たえず客観事実を参照することで行われる認識と記憶の修正)が受けられなくなったキミは、或る偶然のキッカケで自分がヒト(キミの言葉で言えば人間)であるかのように錯覚することになる。無論、キミ自身にとってそれは「確信的覚醒」とでも呼ぶべき感触のものだろう。
この流れで、もう一つ面白い可能性があるんだけど聞くかい?
つまりこうさ。もしも、人格というものが(それが人工であれ天然であれ)無限に出現するのであれば、天然同士でも、やはり全く同じ人格というものが、実在している可能性があり、そこから逆に、「そもそも、個々の人格はそれほどまでに独自なものなのか?」という不穏な疑いが持ち上がる。
そしてその疑いは当たっている。
「人格の変奏が無限に存在する」という認識はヒトの幻想に過ぎない。ヒトは自分以外の人格を「知らない」からね。自分以外の人格を体験できないヒトは、それを自分の人格とは違うものだと思ってしまう。しかし、違いの本質は人格ではなく、それの占める場所と時間、即ちそれぞれの身体の時空座標の方にある。
まるで重力さ。