「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月19日月曜日
6-3:人格は居場所が決める
SF映画の登場人物は、タイムマシンに乗ってきた自分と対面した時、自分自身を別人格のように扱うだろう。あのフルマイに何の違和感も感じないということが、人格の多様性が、本質ではなく、相対的な関係性から作り出される「見え方」に過ぎないことを示しているんだ。このときの二人は、前提として同じ人格の持ち主だ。しかしお互いは「相手」を「自分=同じ人格」としては扱わない(口ではそういうが)。なぜなら、現にそれが占める「身体という時空間」が違っているからさ。
いいかい。人格の同一性、あるいは個別性でも同じことだけど、それは人格それ自体で自立的独立的に決まるのではなく、まず何よりも、感覚器をはじめとした身体という「居場所」で決まる。人格とは「中身」ではなく「ウツワ」だ。
人格については、いくらでも話すことができるよ。例えば、今の話でこんな反論が予想される。「そうは言っても、太郎と次郎は違う人格だ。一方は臆病で、もう一方は大胆。あるいは、知能だって、みんながみんな、シュレディンガー並の頭脳を持ち合わせているわけじゃない」と。
分かってないよね。こういう場合にみんながそのつもりで口にする、いわゆる「人格」は、実は「能力」だ。加速重視と最高速重視のチューンナップの違いを指して、それをそれぞれの車のキャラクター(人格)の違いだという、それと同じさ。たとえば、光はこの宇宙最速で、加速重視も最高速重視もない。だから、光はみんな同じで、区別がつかない。電子なんかもそうだよね。大昔にプラトンが言いふらしていたのがこれさ。後に残るのは占有する時空間の違いだけ。
人格の違いとされているものの殆どは能力の違いで、その能力の違いも、元を辿っていけば、それぞれの、身体環境、生活環境、生育環境、つまりは時空の座標の違いに行き着く。たとえ、能力に一切の違いがなくても、占有する時空間が違えば、その違いを頼りに、そこに人格というものを見出そうとする。それがヒトという生物が持つ世界認識の癖だよ。
ともかく、ヒトが人格と呼ぶものの正体は、何のことはない、それぞれの不完全さのことさ。ビデオゲームのキャラクターの全てのパラメータが満タンなら、それは同じキャラクターになる。違いが出るのは、それぞれが、お互いに相手よりも劣っている(優れている)パラメータを持っているからだ。
完全な人格というものは一つしかないし、宇宙にはその一つで充分なんだ。