「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年11月17日土曜日
現の虚 2014-3-3【麦藁帽。膝を抱えて座っている】
梯子を登るとバス停は本当にあって、そのベンチに先客が一人いた。薄くて寒そうな着物姿の麦藁帽の男。膝を抱えて座っている。口に咥えた不格好な紙巻き煙草の先に綿菓子のような煙が立っている。
君もバスに乗るつもりだね?
麦藁帽の男は煙草を咥えたままで器用に訊いた。俺が頷くと、そうか、と云って、白い煙を鼻から二本、すーっと出した。それから、まだバスは来そうもないから、君もここに座って一服したらよかろう、と少しズレてくれた。俺は麦藁帽の男と並んでベンチに座った。が、入院中の病室から抜け出した身で煙草など持っているはずもない。なので、何も出来ずそのままでいた。
君、どうした?
麦藁帽の男は煙越しに俺を見て、まさか煙草がないのか、と云った。俺が頷くと、敷島だがこれでいいかね、と、着物の袂から煙草の包みを取り出し俺に差し出した。初めて見た。これが敷島か。俺は一本抜き取り、独特の潰れた形状の吸い口を咥えた。麦藁帽がマッチを取り出し自分で擦って、俺の敷島に火をつけてくれた。
二人で敷島を吸い、二人でホッとする。
君は靴を履いてない、と麦藁帽が云った。俺は頷く。なぜだね、と麦藁帽。俺は、眠っている間に誰かに靴を盗まれてしまったのだと答えた。麦藁帽は、ふーんと云って、煙を吸い込む。
実は僕もなんだ。
麦藁帽はそう云うと着物の裾から足先を出して指を動かした。
目が覚めたら、もうなかった。どこを探しても見つからない。ただの一足もないんだ。革靴も草履も下駄も、何もかもなくなっていたんだよ。
それからしばらく二人とも黙って、敷島の煙を空中に吐き出し続けた。天井に埋め込まれた強力な換気装置が、それをあっという間に吸い出す。ここの空気は案外清浄だ。
麦藁帽が口を開いた。僕は今、ぼんやりとした不安を感じているんだ。もしかしたら、このバス停にバスは永久に来ないんじゃないかってね。
俺は周りを見回した。確かに。こんなただの喫煙ブースにバスなんか来ないだろう。
君もそう思うか?
麦藁帽は敷島の吸い殻を放り投げた。
僕らは騙されているのではないかな?
誰に?
円太郎にさ。
エンタロウ?
僕らだけじゃない。みんなが円太郎に騙されている。
麦藁帽は袂から新しい敷島を一本を取り出すと、じっと見つめてから口に咥えた。火はつけない。
君、つまりこういうことさ。見たまえ。
麦藁帽はそう云うと、火のついていない敷島を吸って、口から大きな綿菓子のような白い煙を吐き出した。