2020年3月31日火曜日

『Twin Peaks Limited Event Series』の第5話を観た。Briggs少佐の首なし胴体の腹の中から『To Dougie from Jenny-E』と刻印された指輪が見つかる。どういう経緯でこんなところに入ったのだろう、と思って、オヤ?となった。というのは、第2話で、間違って、というか、Mr.C(「悪い」Cooper)の身代わりでBlack Lodgeに戻されてしまった本物のDougieの体が縮んでいく途中で、彼の左手の指からその指輪が落ちたのを思い出したからだ。つまり、第1話でBriggs少佐の首から下の死体(首から上はまた別の人)が発見された時には、まだ指輪はDougieの指にハマっていたはず(はずというか、ハマっていた)、ということは、これ、どういうこと?

可能性(もちろん、現実世界の物理法則は無視した物語の中の可能性)として考えられるのは二つ。

一つ目の可能性は、「同じ」指輪が、少佐の腹の中と、Dougieの指の両方に存在した。指輪のドッペルゲンガーである。

もう一つの可能性は、第1話で死体が見つかった時には、まだ、少佐の腹の中に指輪は入っていなかった。DougieがBlack Lodgeに呼び戻されたときに、Dougieの指から抜けた指輪が「その時」Black Lodgeから、警察の死体安置所にあるBriggs少佐の遺体の腹のなかに「転送」された。

[「人間」=「人格」]のドッペルゲンガーはともかく、指輪のような[ただの物]までがドッペルゲンガーとして複数存在してしまうと、もう、世界は混沌の極致まで行ってしまいそうなので、一番目の可能性はないと考えたい。すると、二番目の可能性ということになるが、ではなぜ、わざわざBlack Lodegの住人は、DougieとJenny-Eの存在がわかる指輪をBriggs少佐の腹に転送したのかということになるが、その理由はずっと後で明らかになる。即ち、指輪は地元の警察からFBIのGordonチームの手に渡り、その指輪を示されたDianが「Jenny-Eは、父親違いの私の妹」および「妹はDougieとLas Vegasに住んでいる」という証言をすることになり、それが手がかりとなって、Gordonたちが「本物」のCooperに会うためにLas Vegasに向かうという展開になるからだ。と、記憶しているけど、違った?

2020年3月30日月曜日

志村けんが新型コロナで死んで改めて思ったのは、現代人が70、80まで「ふつう」に生きているのは、ただただ科学のオカゲということ。今回のような、科学が「役に立たない」伝染病が現れると、「生きる死ぬ」の基準が一気に、生命現象そのものの文脈に引き戻されて、老人が「老人だから当たり前」という感じで、アッサリコロコロ死んでいく。

よく考えてみれば、七十歳の爺さんが肺炎で死ぬのは、科学という条件を取っ払ってしまうと、ごくごくアタリマエのことなんだけど、みんなその「科学」という条件が見えなくなっていて、なんとなく、人間という生き物の[生き物としての実力]が「向上」して、少し昔だったらヨボヨボのおじいさんだった年齢の人たちが、今は(生き物の実力として)「若くて元気」になったのだと思いがち。だから、「まだ」70歳の志村が死んだりしたら、ショックを受けたりするんだけど、本当はショックを受けるほうが、認識としては「間違って」いる。例えば、『バリバラ』に出てくるような人たちの多くは、停電が即命取り。あるいは、人工透析をしている人もそう。

高齢化や様々な持病を「ものともせず」生き続けている現代人は多いが、それは彼ら(我々)が生命として逞しく進化もしくは適応したのでもなんでもなく、ミズカラの[生命の割合]を少なくして、[機械の割合]を増やすことで、高齢化や持病の悪影響を[相対的に小さく]できるから。

逆説的だが、現代人は、生命であることから自由になること(言い換えるなら、生命であることをできるだけ拒絶すること)で、ミズカラの命を永らえている。

今回の新型コロナの出現は、自分が持っている「生命であること」の部分だけで「自身の命の保持」を引き受けざるを得ない状況を作り出し、それがために、世界中でポロポロと人間が死んでいくことになった。


多分、仮面ライダーになりたかった唐沢の趣味が全開のドラマ『あまんじゃく』を観た。敵も味方も着ぐるみを着てないだけで、やってることは、もう一から十まで『仮面ライダー』。幹部の怪人が、顔を隠した「戦闘員たち」を引き連れて暗躍し、女の幹部怪人の格好が妙に派手だったりする。

あと、野口五郎の怪演も微笑ましくてよかった。ティム・バートンの『バットマン』のジョーカー(ジャック・ニコルソン)以来、この手の敵役って、すごく増えた気がする。つまり、喧嘩の弱い人殺しって感じのキャラのことだけど。

2020年3月29日日曜日

LGTBには特に関心はない。その辺をウロウロしているスズメの性別に特に関心がないように。因みに、人間をはじめとする哺乳類は、所謂「オス」が染色体Yを持つが、鳥類ではY染色体を持つのは「メス」である。だから何? そう、ダカラナニなのだ。「性別」など、所詮その程度のもの。男だの女だのという概念には、宇宙の真理に属するようなもの何も含まれてはいない。


『100日後に死ぬワニ』とそれにまつわる「炎上・騒動」を『ワイドナショー』でちらりと観て思った。この手の「お子様ランチな感動」の物語で満足するような連中なら、こういう「炎上」騒動もそりゃ起きるだろう。まあ、太宰治の『走れメロス』みたいな代物が教科書に載ってしまうような程度の精神レベルの国なら、それもやむなしか。と思わなくもない。しかし、ね、なんだろ、この、甘いと辛いしか分からないような感受性って。


猫の飼育メモ:猫の胃薬はシメチジン(Cimetidine)。いわゆるH2ブロッカー(ヒスタミンH2受容体拮抗薬)。飼い猫が、やたらめったらと体をかきむしったり、毛をむしり取ったりしているときは、実は胃が悪くなっている場合があったりする。このとき、体が痒いのだと「勘違い」して、かゆみ止めなどを飲ますと、更に胃を悪くして、口内炎になったり、血を吐いたりする。すると、食欲が落ちて、急激に体力が失われていき、うっかりすると死んでしまう。あと、何か食べたいときや、トイレを我慢している時も、体をかきむしったり、舐め続けたり、毛をむしり取ったりする。そういう場合は、何かを食べさせたり、トイレに連れて行って用を足させると、その直後にピタリとかきむしり行動が治る。

ボーリングのピンのように座ったままで決して横になろうとしない猫がいる。眠くてうとうとしても決して横になろうとしない。つまり、眠くないのではなく、精神的に緊張して、眠ることを拒否しているのだ。座り続けているので、まるで達磨大師のように、かかとが「床ずれ」を起こす。これを治すには、猫を横たわらせる必要があるが、何しろ、緊張のために横になれないので、ずっと座っている。こうした猫の精神を落ち着かせるために飲ませるのが「アセプロマジン」である。しかし、この薬はその効き目にかなりの個体差がある。効きすぎる個体だと、ふらつきがひどく、失禁したりする。一錠を30分割して与えても寝小便してしまう個体もいる。

2020年3月28日土曜日

昨日まで書いた「千文字作文」がどれも千文字に足りてないことが判明した。原稿文字数を表していると思っていたウィンドウ左下の「字:」の数が、実は、改行やスペースなどの「不可視文字」も含めた数だったのだ(「字:」の部分をクリックして「原稿:」に切り替えると、ちゃんと原稿の文字数が表示される)。今まで書いた散文(ただの千字作文)は、今日の昼のうちに全て千文字に修正し、「√」(現の虚2020)も半分くらいは千文字に修正を済ませた。全ては、最近JeditXから乗り換えたJeditΩに慣れていないのが原因。


初代『ガンダム』を取り上げた『しくじり先生』(プレゼンターはカズレーザー)を観て改めて思った。将来への潜在能力はともかく、子供のその時点での能力・理解力は高が知れてる(『ガンダム』を理解できない読解力)。だから、大人も社会も[子供としての子供]の能力を買いかぶりすぎてはいけない。苗には米ほどの価値はない。時間をかけてエネルギーを注ぎ込むことで価値が生まれる。教育が価値を生む。

言い方を変えよう。生命現象としての価値なら、子供は大人と対等だろう。しかし、知性現象としての価値は、子供は大人の足元にも及ばない。三人の子供を見殺しにして、大人の医者ひとりを助けたほうが、村人全員の命を救うことになる、というような話が、人間の知性現象としての価値。

話がややこしくなるのは、人間はいずれは死んで腐る生命現象なので、いくら知性現象としての価値で圧倒していても、大人は子供を蔑ろにできない。なぜなら、知性現象の系譜が途絶えさせないためには、現時点では、子供という「延長用媒体」に頼らざるをえないからだ。

これを逆に言うと、たとえば、もし人間が不老不死を実現し、生命現象から実質的に「卒業」してしまうと、大人にとっての子供の価値は、今、人間がペットに見出している価値に限定されてしまう。つまり、知性現象のための「延長用媒体」はもはや不要なので、その面で子供をアテにする必要性がなくなり、結果として当然、その部分の子供の価値も消滅するという理屈。


現代仏教やアブラハムの宗教にも、密林の奥地で精霊を崇めているような宗教に払うような、或る種の「敬意」なら、当然払うよ。しかし、絶対に、太陽系の外にわざわざ携えていくような代物ではないね。


本木雅弘を取り上げた『プロフェッショナル』を面白く観た。本木って、ややアスペルね。

2020年3月27日金曜日

「ノートルダム寺院」の「ノートルダム」はフランス語で「我らの貴婦人」という意味。すなわち「聖母マリア(イエスのおっかさん)」のこと。ノートルダムという言葉は、日本では「せむし男」とセットのことが割合多いので、なんとなく、グロテスクなイメージがあったが、全然違ってた。フランス語の語感って、全然ピンと来ない。


ダヴィンチの絵画は、ほぼ全て、木の板に描かれている。これは、ダヴィンチが変わってたのではなく、当時は板に描くのが当たり前だったから。最近ダヴィンチ作品だと認められた『糸巻きの聖母』は例外的に布(キャンバス)に描かれていて、これがために、ダヴィンチの作品ではないと考えられていたが、最近の科学調査で、実は、のちの時代の人間が、作品を板から剥がして布に貼り直したことがわかったのだ。

…と、Eテレの『ダヴィンチ・ミステリー』という番組で専門家が喋っていた。更に…

ダヴィンチという人間は、相当な凝り性で、しかもいろいろなことに手を出すが、「凝り性でいろいろなことに手を出す」ということは必然的に、完成にまで漕ぎ着けることが減るわけで、実際、ダヴィンチには多くの「未完成品」や「失敗作」や「放置作」が存在する。あの有名な『モナ・リザ』ですら実は未完成作品。当時のダヴィンチ周辺の人間もそのことをよく知っていて、「ライバル」のミケランジェロからも、その点を非難され(バカにされ)たりしたのだが、ダヴィンチ自身は顔を赤くして何も言い返せなかったという当時の目撃記録もある。

…ということも、同じ番組で同じ専門家が喋っていた。更に…

ダヴィンチ自身も未完成品が多いことを気にしていて、晩年、結局のことろ俺は何か成し遂げたのだろうか、誰か教えてくれ、みたいなことをノート(日記)に書き残しているらしい。

まあ、わからんでもない。


今回のコロナ騒動は、現代の人間社会が持つ、年寄りや病人あるいは弱者を「見殺し」にできないという「弱点」が最大の原因。この程度のウィルスなら人間以外の生物では大した騒ぎはならない。生命現象は「individual」に固執しないが、知性現象は何よりも「individual」だからだ。


『彼岸過迄』で、二歳ほどの女の子の原因不明の突然死が実に素っ気なく描かれていて面食らった。今の感覚からすると、赤ん坊の両親の態度は「冷淡」と言っていいほど。漱石の実体験(五女の雛子の死)がモチーフらしい。

2020年3月26日木曜日

ヨーロッパあたりではあっちこっちで外出に制限が設けられていて、例えばパリは、外出に許可証が要る上に、その外出も自宅から500メートル以内に限定されているとかいないとか。そういう話を、パリ在住の辻仁成という作家が電話で喋っているのをテレビで見たが、コチトラ、基本的に(プロの作家以上の)引きこもり体質なので、そうした制限を全部自分の身に置き換えてみても、割といつも通りに生活できることに気づいて笑ってしまった。

ちなみに、外出制限だの外出自粛だのは「自分が感染源になるな!」という指示だといことを、もっとちゃんと言ったほうがいい。ともすると人は「自分が感染させられないため」の措置だと思いがち。事態はここに至り、「既に其処彼処に新型コロナに感染した人間がいる」が前提・想定になっていて、だから、大勢の集まるところにノコノコ出かけていくことは、そうとは知らず、ウィルスを撒き散らしにいくことになるのだ、というメッセージ。

今回のような国境を超えた地球規模の災厄が起きて、謂わば「人類共通の敵」に遭遇する事態になると、「普段」の国家間の争いだの確執だのが、実は「平和」ゆえの「呑気なママゴト」「身内の戯れあい」でしかないことがよくわかる。

全地球人類を敵に回す「侵略異星人」の襲来はあまり期待できない上(何度も言うが、恒星間移動が可能な科学力を持つ文明が、地球のような惑星をわざわざ侵略しなくてはならない理由がまったく思い浮かばない。巨大スペースコロニー建造でも、無人(無文明)惑星の植民地化でも、何でも好きにやれるはずだからだ)に、実際そんなことが起きてしまったら、人類滅亡のリスク(繰り返すが、恒星間移動ができるということは、かなりの科学力すなわち軍事力なのだ)はとても高い。

だから、同じ地球出身の「身内」であるウィルスくらいがちょうどいい相手。調子の乗って、いい気になっているところを、思い切り平手打ちを喰らうようなものだからだ。

この新型コロナのせいで、現生人類が、生物として滅ぼされるということは絶対にないわけで(大げさに見積もって致死率5割だとしても、35億人が何事もなく生き残る。これはかつてバルタン星人が移住を試みた約50年前の地球の人口とほぼ同じ)、今回のコレは「人類存亡」云々というハナシではなく、人類が社会システムを見直して再構築する契機とすべきものなのだ。

これで変わらなければ貴様は無能だ。

2020年3月25日水曜日

今年は明治152年。明治天皇が在位中に自身を最後の天皇とすることを宣言して、明治が最後の元号となった。ちなみに、そのおよそ100年後、ダライ・ラマ14世が自身を最後のダライ・ラマとすると宣言し、いわゆる転生制度も終焉を迎えた。

こうしたロマンチックな政治機構は、かつて世界中に無数に存在し、また無数に失われて行ったはずである。つまり、日本の元号制度やチベットの転生制度が失われたことを殊更にアレコレするのは、単に、その場に居合わせた、所謂当事者の感傷に過ぎない。こうした制度は、一定以上の効果を発揮していたとしても、所詮は「神の思し召し」同様、根拠薄弱な虚構の産物である。地球人類が未来永劫続く宇宙市民を目指すなら、この手の「親指しゃぶり」的な癖は、ひとつずつ卒業していく必要がある。

さて、ここに「平行宇宙=parallel worlds」という概念がある。或る作家(人工人格甲型)は、この平行宇宙という概念を元に、いまだに天皇制が維持されているこの国の姿を描き出した。天皇制が維持されているということは、元号も更新されており、今年は「令和2年」となっている。

この物語では、天皇制が維持されたことによって引き起こされた最大の事件として「第二次世界大戦」が描かれている(無論、現実は今の所まだ一度である)。しかも、この「第二次世界大戦」で、日本はアジア圏の自主独立を掲げ、結果として、世界の殆どの国を敵に回し、惨めな敗北を期すのだ。

そんなバカな話は、これが虚構だから起こり得るのであって、まともな神経の持ち主なら、どの国の政治家であろうと軍人であろうと、世界一の大国アメリカを相手に総力戦などやるはずがない。物語の中で彼らをアメリカとの戦争に駆り立てたのは、天皇制ということになっている。駆り立てたというのは少し違うかもしれない。合理的に考えれば、様々な反対にあって、到底実現不可能なはずのアメリカとの開戦を、天皇制が或る種の「魔除け」や「免罪符」や水戸黄門の「印籠」のように機能することで、現実にしてしまったのである。

件の作家は人工人格甲型であり、生身の人間の人格を「再現」したものなのだから、この奇想天外な物語は、その元となったその人間の体験や思想や偏向が源になっているはずである。

一体、どんな人生を送れば、こんな奇妙奇天烈な発想が生まれるのか実に興味深い、というのが、各界の識者の大方の意見である。

2020年3月24日火曜日

茶の湯のことを紹介した番組を時々Eテレでやる。探してまでは観ないが、たまたま出くわしたら、録画して何度も観る。茶の湯をやりたいからではない。ちょうどタモリのネタと同じ感覚で観るのだ。あるいは『ダーウィンが来た!』と同じ感覚で観る。すなわち、アカゲラがくちばしで矢鱈に木の幹を叩いたり、ビーバーが熱心にダム工事をするのを、バカバカしいと思いつつ、しかし大したもんだねと感心もしながら観る、アレと同じだ。

茶の湯に関わっている「伝統文化の人たち」が、大真面目に喋り、大真面目に様々な所作をするほど、こちらとしてはオモシロくて仕方がない。無論、茶の湯に限らない。能でも歌舞伎でも皇室行事でも、妙に伝統伝統したものには、この手のオモシロさ・コッケイさがあり、大好物である。


25年後の『Twin Peaks』の「悪いクーパー(Mr. C」は「邪悪・極悪」なのではなく、単に「手段を選ばない」つまり「目的のためなら殺人も厭わない」だけのこと。その意味で、快楽殺人的な「悪いリーランド」とは全然違う。「悪いクーパー」は、ジェフリーズが口をつぐんだ「Judy」を探しているわけだが、それはおそらく「Judy」と共闘するためではなく、始末するためだろう。ということは、彼は、留置所でゴードンに説明したように、やはり捜査官として「極秘捜査」をしているのだ。FBIという組織に所属していては自由に動けないので(例えば邪魔者を好きに殺したりもできない)あんな感じの「行方不明状態」になっているのだ。と、今日観た第四回「BRING BACK SOME MEMORIES」で改めて思った。


「リーマン・ショック」は、所詮人間が勝手に始めたゲームの一つの展開に過ぎない。言い直せば、人間が自分らで勝手に決めたルールに従っていることで起きている見せかけの騒動。勝手に作ったゲームでしかないのだから、ドウシテモな所まで行ったら、全て棒引きにすれば騒動は治る。一方、新型コロナ騒動は、人間が生命現象であることの限界を突きつけられている本当の騒動

もう一つ。新型コロナと人間は、生命現象という意味で対等。それを別の言葉で言えば、この「戦い」は、どちらともに主人公で、どちらが「勝って」も「ハッピーエンド」ということ。とはいえ、もしも今回のコロナが人間だけをアテにして増殖しているのなら、どちらが「勝って」も「勝者なし」の「バッドエンド」。

2020年3月23日月曜日

『映像研には手を出すな!』全12話を面白く観た。見ながら、この面白さは『初代ガンダム』に通じると思った。初代『ガンダム』の面白さ、それは日本初(ということは世界初か?)の「本格危機管理アニメ」だということ。ホワイトベースに襲いかかる、ありとあらゆる「正解のない難題」を、新米艦長ブライトを先頭に、乗組員たちがどうにかこうにかカタチをつけて乗り切っていくあの感じ、実はあれが初代『ガンダム』の(というか富野アニメの)面白さで、今回観た『映像研』のアニメ制作の現場の「奮闘」にも同じものを感じた。

考えてみれば、初代『ガンダム』のホワイトベースでのドタバタぶりは、実は、『ガンダム』制作現場のドタバタぶりとパラレルになっていたわけで、そういう意味では、今回の『映像研』は、まあ、比喩ではなく、散文で現場のそうした危機管理を表現したということでもある。知らんけど。


フルサイズミラーレスデジタルカメラの「フルサイズ」の「フル」って何に対しての「フル」なんだと思って少し調べてみたら、搭載しているセンサーの物理的な大きさ(面積)が35ミリフィルムとほぼ同じという意味の「フル」なのだと分かった。

なるほど、物理的に同じ大きさ(面積)にすれば、理屈の上では、デジタルとアナログ(銀塩フィルム)の違いは、光を受け取るモノがセンサーかフィルムか、ということだけになる。それはつまり、メーカーとしては、レンズだのなんだのの装置としてのカメラ技術を、フィルムカメラからそのままデジタルカメラに持ってくることができる、ということを意味する。というか、まあ、売り文句として、記録媒体が変わっただけで、装置としてのカメラそのものは銀塩フィルムカメラと同じなので、ユーザーは今まで通りの馴染んだやり方で、撮影できますよ、ということなのだろう。


非常時の簡易トイレを自前で作る方法を『あさいち』の再放送で観た。簡易トイレのキモは、凝固剤なのだが、冷凍庫に大量に余っている保冷剤からそれを取り出せるというのだ。

やり方は簡単で、保冷剤の袋をハサミなどで切り開けて、容器などに中身を出し、上から塩を振り掛けると、水分と凝固剤に分かれる。それをキッチンペーパーなどで漉して、水分を取り除き、よく乾かせば、いざという時に新聞紙などで作った簡易トイレに放り込んで使えるという話。実際にやるかどうかは別にして、知っていて損はないと思ったのでメモ。

2020年3月22日日曜日

「見上げ入道」とか「伸び上がり」と呼ばれる妖怪の「目撃者」の生理現象としての正体はやっぱり「不思議の国のアリス症候群」だろう。すなわち、目にしたものが実際よりも小さく見えたり大きく見えたり近くに見えたり遠くに見えたりする「小視症」や「大視症」などとも呼ばれるアレだ。


「生命教」の文脈でいうところの「生命現象の呪い」は、生命が「自然淘汰」に依存していることで生じる。自然淘汰は意思を持たない単なる機構なので、当然、善悪もないし、希望も理想も理念もない。自然淘汰は、なんであれともかく生き残ったものをヨシとする。これを別の言い方でいうと、友好的であれ、敵対的であれ、消滅せずに存在し続けたものを「正解」とするのが自然淘汰である。

日本にはうってつけの諺がある。「勝てば官軍」。自然淘汰の「態度」をこれ以上的確に表現した言葉は他にない。自然淘汰は、勝つための理由も方法も一切問わない。ただ、結果として勝てばよいのである。

自然淘汰の「勝てば官軍思想」は、生命現象に於いては「呪い」ではなく「動力」となる。それが「呪い」になるのは知性現象に於いてである。紛らわしくなるのは、そもそも生命現象というものが、知性現象を伴った物理現象のことだからだ。自然淘汰が、生命現象にとって「呪い」のように見えることがあるのは、それが[生命現象に必然的に含まれる知性現象]に作用しているからに他ならない。しかし、人間を別にすれば、地球上の生命現象に於ける知性現象の「占有率」や「含有率」は高が知れている。そうした生命現象に対して、自然淘汰は「呪い」としてよりも「動力」として強く働く。

人間がこのまま何億年も地上で繁栄し、科学力を限界まで高めたところで、依然として生命現象であり続けるなら、人間の周りには、様々ないじめや、あらゆる人殺し(親殺し、子殺し、自殺等々)、精神疾患、身体疾患が存在し続けるだろう。そしてそれは、憎みあい嫌いあう個人や集団を出現させ続ける。つまり、簡単に言ってしまうと、生き物としての人間は、これまで同様、未来永劫、「死も憎しみもない楽園」を実現することはできない。それが「生命現象の呪い」言い換えるなら[自然淘汰という出自]ゆえの「呪い」ということ。

「生命教」に毒されている目には決して見えない真実がある。それは「生命は生命を尊ばない」ということ。生命が尊ぶのは「自分」だけ。それ以外は「資源」か「無視」

2020年3月21日土曜日

今回の「AI美空ひばり騒動」で、改めてはっきりしたのは、現状、人類の多くが、生命と人格と生命体の区別が全くついていないということ。

「AIひばり」を冒涜だとか不気味だとか言って騒いでしまう一つの理由は、[かつて美空ひばりと呼ばれた生命体]に付随していが人格が、別の媒体(コンピュータ上など)で、そっくりそのまま「蘇る」ことがありうると、誤って信じている連中が結構な割合で存在するからだ。言い直すと、死後の世界だの死後の魂だの[肉体から発生しながらその肉体から自立した精神的存在]だのが「実在」するという妄想を拭いきれていなかったり、まともに信じている連中(ヤレヤレ)が大勢いるということ。つまり、この場合、「死者を蘇らせること」を冒涜だの不気味だのと騒いでいる。

もうひとつの「冒涜」はもっと単純で、要するに「死人にカンカンノウを踊らせるようなことをするな」という苦情。これは、別にAIに限った話ではない。残された映像や音声を好き勝手に切り貼りして面白おかしく仕立て直してみんなで笑う、というようなことは前からあって、こういうのは、よほどの技量やセンスがないと、確かに「冒涜」的になりがち。

ところで、ここではっきりさせておかなくてはならないのは、生命体美空ひばりの全存在データをコンピュータに取り込んで、前者と寸分違わぬ「AI美空ひばり」を作りだしたところで、「生前の記憶」すなわち「体験」を引き継いでいない限り、それは別の人格であり、ということは「別人」ということ。

そんなことはちょっと考えればわかることで、AIどころか、生きているに人間が、自分自身を連続した一つの人格だと認識するのは、偏にこの「記憶」のおかげだからだ。逆に言えば、生命体として連続して生き続けていても、もしもこの「記憶」が断絶されれば、それ以前とそれ以降で、その人は、自分自身の体験としては「別の人格」ということになる。

仮に、今「AIひばり」に、生身の人間並の人格が備わっていたとしても、「生前のひばりの記憶」を引き継いでいなければ、周囲の反応とは裏腹に、「当人」としては「私は私=かつて生きていた美空ひばりとは違う存在だ」という感覚しかない。つまり「よく似た他人」にすぎない。

あと一つ。何度も言うが、AIは人類のtoolではなく、人類の究極目的。[自然淘汰に拠る呪縛]のない[生命現象非依存型知性現象]こそが、真の知性現象だから。

2020年3月20日金曜日

人工人格には甲乙丙の三型が存在する。

甲型は、この技術がそもそも目指した人工人格。すなわち、現に生きている人間の人格を、人体以外の媒体で再現し継続させるためのもので、実在した人格の複製人格である。

乙型は、甲型として蓄積された大量の「人格」データを「調合」して、調合者や支持者がいうところの「より良いもの」として作り上げられた「人工の人工人格」、つまり「メタ人工人格」。

そして丙型。これは、生身の人間の人格データではなく、人間の精神構造を模した機械機構から出現した人工人格。故に丙型だけが、人類という生物とは無関係な、ある意味で「真の」人工人格と言える。しかし、人間の傲慢さはここでも発揮され、世間は(ということは一般の人間は)、この丙型人工人格を「搭載」した自働機械を、陰では「オンボロロボット」と呼んでいる。

先日、この丙型人工人格の某氏と、彼の職場である大学で、少し話す機会があった。氏は、宇宙の永遠性について、以下のようなことを語った。

我々が、今とは全く違う遥かな未来の姿を思い描けるなら、それは、この宇宙が永遠ではない証拠となる。理由はこうだ。未来が永遠なら、過去も永遠であり、永遠の過去から見れば、今この時が既に[永遠の未来]に当たるはず。にも関わらず、当事者たる我々が、今とは違う[永遠の未来]を想像できるということは、つまりは、永遠の未来が未だ実現していないことを意味する。これを逆向きに見れば[永遠の過去]もないということだ。よって、この宇宙は永遠ではないと結論できる。

人間が、丙型人工人格を「オンボロロボット」呼ばわりする一番の理由は、彼らの考え方や、存在世界(宇宙)の捉え方が、人間とは本質的に違っていて(それは当たり前のことなのだが)、彼らの言動が人間にはどうにもピンと来ないためだ。しかし、その「ズレ」を「超越」とは取らずに「オンボロ」と取ってしまうところが、人間という存在の情けないところでもある。


氏は続ける。

もし、舞台が永遠なら、そこに出現する登場人物が生まれたり死んだりしたところで、その現象自体もまた、永遠に起きたと云うことになる。それはつまり、一等が出るまで無限に引き続けることのできるクジのようなものなのだ。自分よりも年上や年下が生きているという事実がアナタの耳元で囁いている真実は、アナタは永遠には生きられないということである。

聞けば聞くほど、浅学非才の感を覚える。

2020年3月19日木曜日

怪我や病気や老衰で脳が機能不全を起こしたせいで「元の人格」が失われた人間に対して、いつまでも「元の人間」と同じように接するのは、時間が経って腐った高級料理をいつまでも高級料理がっているのと同じだ。それは、[対象から直に得られる体験(実際に食べて美味いと感じる)]ではなく、それに[付属する「情報」からの体験(実際に食べたら腐った変な味だけど高級料理だから喜んで食う)]ということ。

人間が他の人間と接することで体験する「人間」とは、生命現象そのものではなく、生命現象を媒体として出現している知性現象から[得るもの/得られるもの]であり、いくら生命現象としての身体が存在し続けていても、肝心の知性現象をマトモに出現させられなくなっているなら、もう、その身体は「その人間」ではない。「或る個人の人格」という知性現象を「正常」に[発信/出現]することができなくなったヒトの身体は、知性現象としての「人間」の側から見れば、ということは、本当の意味での人間ということから見れば、すでに「死人」である。

腐った料理は、たとえ見た目は同じでも、それは既にただの生ゴミである。


「新型コロナウィルスとの戦い!」などと騒いでるが、ウィルスの側は、別に、何とも戦ってはいない。ウィルスは人間が増やしている。正確にいうと人間の細胞が増やしている。

世界中の人間(特に為政者)が青くなっているのは、人死ではなく、経済の方。世界が「豊か」になったせいで、大勢の人間の「遊び/娯楽」で金儲けをしている人間の数が圧倒的に増えてしまったために、今回のような騒ぎが起きて「遊び/娯楽」が制限されると、大勢が稼げなく(食えなく)なってしまう。だが、死と並べた時、「遊び/娯楽」は立場が弱い。

しかし実は、自然の摂理は、今回の場合、「遊び/娯楽」を優先させる。人間の経済活動に普遍的価値があるからではなく、単にその方が自然選択の原理に沿うから。世界中の為政者が本当は言いたい、[年寄りや病気持ちは一定数死ぬかもしれないけど、まあ、若くて元気な大勢が食うためには「遊び/娯楽」を制限すべきではない]というコトバを、自然はためらうことなく発するだろう。

ウィルスに感染して死ぬのは、細菌から人間に至るすべての生き物とってただの「通常死」だけど、健康な人間の経済活動を他の人間が強制的に制限して、当事者を餓死や自殺に追い込むのは、これは「殺人」だからね。

2020年3月18日水曜日

『本能寺の変/2020サミット』をNHKで見た。「四国説」はかなり説得力があったね。信長暗殺に長宗我部が絡んでいたとは。


コロナ騒ぎが原因の株価の急落がそんなに心配なら、しばらく市場を締めてしまえばいいだろう。株価の高低で大騒ぎするのは、フィギアスケートの羽生が何点取るかで騒いでるのと実質同じこと。つまり、頼まれもしないのに人間が勝手にやって、勝手に喜んだり悲しんだりしている。例えば、株価を半年「凍結」したところで、困るのは証券会社だけだろう。

あと、今度のコロナ騒ぎで、飛行機、列車、映画館などの馬鹿馬鹿しい程の座席の窮屈さに全人類が気づき、改善されることを期待する。ずっと言っていることだが、どうして、カネを払って、あんな窮屈な場所に長時間押し込められなくてはならないのか?


日本人のGiftedを何人か取り上げた『素顔のギフテッド』というNHKの番組で、東京芸大に「意気揚々」と入学したが、退学処分にされてしまったGiftedが引きこもり状態で鬱になっている様子を見た。

東京芸大にしても、東京大学にしても、ああいうところは、社会で便利に利用できる、いわゆる「人材」を育成するところなので、「人材」としてはあまりにもパワフルな才能は、やっぱりアブレてしまうのだ。

これを別の言葉で言うと、手塚治虫レベルの「天才」なら東京芸大や東京大学でやっていけるが(そして、おそらく旧日本軍でも立派な士官としてやっていけるが)、水木しげるレベルの「天才」になると、もう芸大や東大では手に負えない(当然、歴史が示しているように、旧日本軍でも持て余す)。

「わかりやすい天才」というものがいて、これは、世間の誰からも「天才ね」と言われる存在だが、その実態は「天才風」とでも言うべきもの。それは、社会が、と言うことは商売人が、商品として利用しやすい存在。つまり、「わかりやすい天才」自体も、彼らが生み出す作品も、実は「常識レベル」ということ。

「モノホンの天才」というのは、まず、わかりにくい。大抵の人間は、彼らを「天才」だと気づけない。ということは、社会も彼らを「活用」しにくいし、だから商品として売り買いすることも難しい(何よりもその価値に気づけないので、社会的な価値とならない)。結果として「モノホンの天才」たち自身も稼げず、食うに困ったり、引きこもったり、鬱になったり、絶望したり、自殺したり、ということになる。

2020年3月17日火曜日

『100分de名著』のアーサー・C・クラーク特集の第三回をたまたま見て、思った。原作は一つも読んでもいないのに、映画の『2001年宇宙の旅』だけのイメージで、アーサー・C・クラークを買いかぶりすぎていた、と。

第三回で取り上げられていた作品(タイトルは忘れた)が、荒廃した地球上でシェルターのような都市を作り、その中だけで生きている、或る意味で「不老不死」の人類と、そのシェルターの外の「荒廃した」世界で暮らす、寿命は普通だが、テレパシー的な能力を持つ人類とが、お互いの存在に触れないように生きているというような設定の話。設定が荒唐無稽なのは構わない。ガッカリしたのは、作品の根底にある思想の凡庸さ。

まず、「不老不死」の人類だが、これは、科学力によって寿命が1000年に伸ばされていて、しかも寿命がくる前に、その人の全データを保存して、1000年後に別の体の人間として蘇らせる、という仕組みで生きている。或る個人の全存在データを保存し再利用するのは、まさにアナトーさんの「人工人格」と同じ。というか、こういうアイディアは誰でも思いつくもので、そのこと自体はどうでもいい。引っかかったのは、そうやって人工的な「輪廻転生(しかも前世の記憶を持つ)」を繰り返して何十億年も生きている人間の、言動・振る舞い・発想が、やっぱり寿命百年足らずのそれと何も変わらないところ。

同様に、テレパシー的な能力を持って、ということは擬似的に「複数の体に一つの魂状態」なのだろうはずの、なにやらスピリチュアルな側の人類も、やっぱりテレパシーも何もない普通の人間と言動や振る舞いが何も変わらない。「人工輪廻転生」側もテレパシー側も、要は、実質、精神としては死ぬことのないひとりの人間ということのはずだが、それにしては恐ろしく愚か、ということ。愚かというのは、まあ言い過ぎで、現実の現代人並みということ。まずこれにがっかりした(がっかりしたところは他にもいくつもある)。

つまりこれは、作者の思想が「凡庸」だから、ということに尽きる。どんなに超越的な登場人物たちを設定をしても、物語を語る当の作者のアタマが「普通の人間」なので、実際の物語は、単に、現実社会が抱える問題の暗喩(metaphor)にしかならない。これをアナトー式に言うなら、「生業」をテーマにしているつもりで、実際には「家事」のやり方をあーでもないこーでもないとやって…

2020年3月16日月曜日

ウエマツ事件の類をこれ以上起こさせたくなかったら、やるべきことはひとつ。しかも、特に難しいことでもない。全人類にとっての「呪い」である「生命教」に対して、人類が自覚を持つこと。そして、別に生命教に対する信仰を捨てなくも構わないから、とにかく自らの生命教信仰を客観できる立場にまで、自分を高めること。これは嘗てゴータマさんが説いたことで、別に新しいことでもなんでもない。

ウエマツ事件が事件になった契機は、犯人が「生命にも無価値な生命がある」と気づいたこと。しかしこの気づきは間違っている。なぜなら「生命には無価値な生命しかない」のが本当だからだ。もっと単純に言えば「生命には価値などない」のだ。

「生命には価値がある」は、全人類が信仰する生命教の教義に過ぎない。生命は単なる物理現象の一形態である。もしも生命に価値があるのなら、太陽が燃えることにも価値はあるし、宇宙が存在することにも価値はある。そして、太陽が燃え尽きることにも価値があり、宇宙が消滅することにも価値がある。

「生命には価値がある」が客観的事実なら、価値があるのは人間の生命だけではない。この地上でも最も人間を殺している蚊の生命にも、人間と全く同等の客観的な価値があり、人間が日に何千トン何万トンと「消費」している家畜や家禽の生命にも、人間と同等の客観的な価値がある。

人間の言う「生命には価値がある」の「価値」は、人間主体の人間本位の[非客観的な価値]でしかない。それはただの宗教で、要は「神様が尊い」と全く同じ意味の空虚なタワゴトなのだ。

重要なのは、これを全て踏まえた上で「生命には価値がある」という虚構が人間社会を成立させているのだという現実を受け入れることだ。人間の生命など、どこの誰のものであっても、客観的には何の価値もない。しかし、人間社会を構成する人間たちにとっては、価値があるものでなければならない。それは「生き物:人間」というゲームの根本のルールである。

「生命には価値がある」が、「人間というゲーム」の単なるルールでしかないことに気づきにくいのは、全ての球技に於いて、一度に一つの球を使うことがルールであるのに気づきにくいのに似ている。あまりに根本的すぎて、それが「作為」に過ぎないことが見えないのだ。

何はともあれ、「[生命は無価値]を踏まえた上で[生命の価値]を共有すること(=教育)」が、未来のウエマツたちを未然に防ぐ。

2020年3月15日日曜日

航空運賃1800円の便が現れたと聞いて、想像してみた。

乗ると、座席の一つもない筒状の胴体の床に、数人の乗客が直に座っている。慣れた乗客は、花見用シートやスポーツタオルを敷いた上に座っている。座り方は、あぐら、体育座り、横座り、いろいろだ。機体の大きさの割に乗客が少ないので、機内はガランとした印象。どうやらキャビンアテンダントもいないようで、代わりに「ご自由にどうぞ」と書かれた張り紙のダンボール箱が、後ろの方に置いてある。箱の中には、水のペットボトルとオレンジジュースのペットボトルが、乗客の人数より少し多めに入っている。機内食は無論ない。乗客の何人かはレジャーシートの上で持ち込んだ弁当を広げている。

一番驚いたのは操縦室で、扉に手をかけると、簡単に開く。恐る恐る覗いてみると、機長が一人だけで飛行機を飛ばしていて、隣の副操縦席は空席。気づいた機長が「ああ、ちょうどよかった、少し代わってもらえませんか、いや、ここからしばらくはただまっすぐ飛ぶだけですから、そこに座って黙って見てもらっていれば、あとは機械がちゃんとやってくれますんで」。そう言いながら、すでに操縦席を離れ始める機長。仕方なく、副操縦席に座り、機長が小用と一服を済ませて帰って来るのを、落ち着かない気分で待つ。帰ってきた機長が、計器を見るなり「ああっこりゃダメじゃないですか!」と言って、慌てて操縦桿を引き上げたりする。

そういう飛行機を勝手に想像した。タクシーの1800円だと、札幌市内から出ることすらできないはず。


新型コロナ騒ぎのせいで無観客になった今年の『R-1グランプリ』で優勝しした、自分でプログラムしたゲームで笑いを取る芸人が、『ワイドナショー』にも出ていて、そこで披露した自作ゲーム『ブロックくずして』(「デッカチャン」という[キャラ=実在の芸人]に、ブロック崩しの球を当てないようにするゲーム)がすごい面白かった。確かこの芸人は、少し前の『タモリ倶楽部』にも出ていて、やっぱり自分でプログラムしたオリジナルのゲームを披露していた。その時のゲームは、テトリスに端を発する所謂「落ちものゲー」で、次々に落ちてくる食べ物を「相性の良い」組み合わせで並べたり積み上げたりすることで消していく。このゲームのミソは「食べ合わせの悪い」組み合わで並べたり積み上げたりすると、食べ物が腐って、消えない「障害物」になってしまうところ。

2020年3月14日土曜日

湯上博士との面談は非常に興味深いものであった。生命現象としての彼は、実に数年前に消滅しており、今現在、様々に活動をしている博士は、いわば、彼の「幽霊」ということになる。

と言っても、彼の「幽霊」は、世界中の人類社会に大昔から「存在」する、出所も根拠も不明な「死後の霊魂」とは全く異なる。それは、博士という一人の人間の全存在を数値化し、それを生命現象以外の媒体で再現したものである。ごく平たく言ってしまえば「人工幽霊」であり、湯上博士自身が生み出した用語を用いるなら「人工人格」ということになる。

呼び名は人工幽霊にしても人工人格にしても、そんなことが実際に可能なのか。湯上博士(の人工人格)は、可能だという。彼に依れば、或る個人の精神的と肉体的の両方の情報と記憶を全て数値化することで、個人は、肉体を失った後も、新たな媒体(例えばコンピュータなどが典型的)を拠り所として「復活」すなわちresurrectionすることが可能となる。何よりの証拠がこの自分だと、湯上博士(の人工人格)は微笑んでみせた。

そもそも湯上博士を「復活」させた人工人格技術の基礎理論の構築者は湯上博士自身である。フランケンシュタイン博士が、その叡智と情熱と技術力で「復活」させたのは他人だったが(厳密には、何人かの他人を組み合わせて一人の全く新た人格を復活させたのだが)、湯上博士は自らを復活させた。その点で言えば、フランケンシュタイン博士は科学者としては二流、湯上博士は科学者の鑑と言えるだろう。自らを実験材料、臨床の対象とすることは、古来、英雄的な科学者の典型的行為に他ならないからだ。

湯上博士との面談場所となった「建物」には、湯上博士以外にも多くの人工人格が「暮らして」いた。しかし、彼らの多くは、スクリーン上にしか現れない湯上博士とは異なり、物理的に実在する「身体」があった。その肉体は、平たく言えば「ロボット」である。今、人型ロボットを意味する「アンドロイド」という言葉を用いなかったのには理由がある。彼らの多くが、その「身体」に人型を選んではいなかったからだ。実際、人型の「身体」を持つ人工人格の割合は5割に届かないというのが、その「建物」の管理者でもある湯上博士の説明だった。

人工人格の「身体」は、概ね電子機器的な所謂「機械」だが、中には生物学的培養技術で生み出された有機的「身体」を持つ者もいた。

2020年3月13日金曜日

死後の世界の話など持ち出すと死神に笑われるのがオチだ。死神は死なない。死なない死神にとって「死の後」は「四角い三角」「緑色の赤」と同じである。

死神は、単に死なない生き物である。生き物とは、物理現象の一形態である生命現象によって実現された、或るひとまとまりの機構と言えるだろう。生き物は機構すなわちmechanismに過ぎないのだから、故障・解体・破損等は必ずいつか起きる。しかし、人間が特別視する「死」という現象は、生き物には訪れない。厳密に言い直すなら、生き物に訪れる故障・解体・破損のうちで決定的に不可逆なものに対して、人間は「死」という特別の名前を与えてヨロコンデいるにすぎない。つまり「寿命が尽きて死ぬ」ということのない死神は、単にその類の故障が起きないだけで、はやり生き物という機構であるということに変わりないのだ。

こういう話を地下の喫茶店で死神とするのがオモシロイ。地下と言っても、地獄だのあの世だのという意味ではなく、近所のビルの地下にあるただの喫茶店だ。

死神の好物はタバコと珈琲。好物というよりは食料つまりエサだ。死神はタバコの煙と珈琲の液体だけで「生きて」いる。他は何も口にしない。と、少なくとも当人は主張する。死神が寿命で死なないのは、この特殊な食生活と関係があるのかもしれない。普通の人間の中にも、何年も土だけを食べて生きている老婆などが時々現れるが、ああいう連中も、妙に「健康」だったり「元気」だったりする。

しかし、因果が逆ということもあるだろう。特殊な食生活で「元気」なのではなく、「元気」だから特殊な食生活ができるのだ。とは言え、土食いの婆さんはともかく、死神などはおそらく後者のはず。死神の「元気」とは、端的に、寿命で死なず、いわゆる病気と呼ばれるものにも一切煩わされないということだ。

と、言ったそばからなんだが、死神だけが患う「病気」というものが存在することを、当の死神から教わった。名付けて「生命病」。これに罹った死神は、なんと寿命が「発症」し老衰死してしまう。

少なくとも、死神にとって、寿命とは或る種の病気であり、その認識は、心ある多くの人間からも共感を持って受け入れられるだろう。しかし、いくら共感されても死神は喜ばない。なぜなら「生命病」は、人間が不用意に死ぬことで生み出される特異な環境汚染が原因で引き起こされるものだからだ。


2020年3月12日木曜日

死神にはAB二種類がある。一般的なのはA型で、これは人間に死をもたらす死神。英語で言うところのThe Reaperだ。意味は「刈り取る者」「収穫者」、要するに、大鎌を担いだ黒ローブ姿の髑髏顔のごくおなじみのアレ。たまに空中をふわふわ飛んだりもするとかしないとか。

B型はこれとは全く違う。彼らはどうやら元はただの人間か、人間によく似た生き物だったのが、進化だか退化だか改造だか、とにかく何らかのキッカケで、死神になってしまったのだ。なので、ふわふわ飛んだりはしないし、そもそも、人間の生き死ににも直接何も関与しない。

言ってしまえば実体があるのはB型の方で、A型は、死という現象が擬人化された単なる虚構。言い方がきつければ、観念や概念と言っても構わないが、まあ、実際のところただの精神のアソビ。

死神B型は、さっきも言ったように、生き物の一種だが、生き物としては非常に珍しく、個体に寿命がない。つまり、放っておけば、死神の各個体はずっと「生きている」。

死神の個体が寿命では死なないのは、死神がそれ自体では繁殖をしないためだろう。逆に言えば、ほとんどの生物種の個体に寿命があるのは、次の世代に対する生存資源の解放という意味があるからだ。死神は、元々は死神ではない生き物が死神になる。次世代の誕生に自分たちが全く関与できないということは、自分がいつ「前の世代」になるかも、なったかも、自分では分からないということだ。死神にとって寿命は不合理である。

死の擬人化である死神A型の「仕事」が人間に死をもたらすこと、人間の「タマシイ」を死者の国へと連れて行くことだというは分かりやすい。では、ミズカラも生き物の一種である死神B型の「仕事」とは何か? それは、死神自らが言うところの「除染」である。

人間の場合、「除染」という言葉で真っ先に思いつくのは放射能汚染を取り除く作業だ。死神の場合の「除染」もこれとやや似ているのが、汚染のモトは放射能ではなく、死んだ人間の記憶である。

「死んだ人間の記憶」の最も一般的なイメージは「幽霊」ということになる。しかしもちろん、どんな記憶も何かしらの媒体を必要とする。人間の場合、各個人の肉体がその媒体である。つまり、死んだ人間の記憶など存在しない。存在するのは、死んだ人間への記憶である。残された人間に働きかけることが、死者を成仏させる。それと同じ機構だ。

2020年3月11日水曜日

動物が自分の傷を舐めて治すのは、実は治してるんじゃなくて、傷が「美味い」からなんじゃないかと思っている。傷が「治って」くると、だんだんと「美味さ」が減ってきて、自動的に「治療」の頻度も減ってくるというよくできた仕組み。こういう、意識的な理解を伴わない(必要としない)動物の「合理的な行動」は他にもあって、例えば、哺乳類のメスが1日の内で定期的に子供に授乳するのは、授乳時間(の間隔)を理解してるんじゃなくて、単に乳が張ってくるから。つまり、一種の排泄としての授乳行為。だからダメというのではなく、逆。だから、好い、スバラシイのだ。

高度に複雑な行為の多くが、その成立に「理解」を必要としない。理解を伴わない行為に意図が見える(感じられる)ということを深く追求すると、心の問題に行き着く。

「理解」は心の一つの現象と考えることが可能だし、「意図」とはまさに心の別名だろう。或る種の意図を発っしたり持ったりする存在が、自らの意図を理解していないということはありそうな気がする。すると、心という現象のうちで、意図は理解よりも原理的ということが言えそうだ。原理的を言い換えて根源的としてもいい。あるいは原始的、本能的でも構わない気がする。つまりは、意図は理解よりも未開的ということ。

実際、例えば、子猫に授乳する母猫は、授乳の意図はあるが、授乳という行為に対する理解はなさそうだ。その状態を平たく言えば「なんだかわからないけどそうしたい」ということ。


今日は3月11日なので、例によって、テレビは、東日本大震災関連の番組があっちもこっちも。生まれ故郷に、特になんの理由もなく三十年以上「帰って」ない身としては(つまり、世の中の多くの人間があれやこれや言いながら定期的に生まれ故郷に戻りたがる理由がわからない身としては)、原発事故をきっかけに他所に引っ越した元住民たちを呼び戻そうしている人たちの活動には何の共感も覚えない。そういう人たちを非難するつもりではなく、呼び戻したがるその感覚が全くわからないという意味。


ボディビルに勤しむタイプは、ちょっとアレか、ノイローゼかのどっちかだ。でもまあ、それで言えば、毎日ラーメンを食べ歩くのも、バッグ50個持ってるのも、貧乏旅行がやめられないのも、みんな同じか。と言うか、死んで終わりという自覚を持っている人間という生き物がやることは所詮みんな「ボディビル」でしかないの…

2020年3月10日火曜日

今朝の『あさいち』を観ていたら、「おいらの船は300トン」という歌に合わせて出演者たちが足踏み体操みたいなことをしていた。「おいらの船は300トン」! この歌、すごく知ってて、ワンコーラスを割とちゃんと歌える!(気がする)。 四十年も前から知っていて、ずっと忘れていたのを、今朝の『あさいち』きっかけで思い出した。まるで25年間ブラックロッジにいたクーパーの気分。当時はラジオもレコードも持ってなかったから出所はテレビだろう。おそらくはローカルCM。毎日のように聞いていた。しかし何のCMだったのか? そう思って少し調べてみたら、コチラが知っている歌詞は、実は「替え歌」だったと判明。しかし、何のCMだったかは分からずじまい。なんとなく、酔鯨(日本酒)のCMだったんじゃないかと思ってるんだけど、全然違うかもしれない。ネット時代と雖も所詮こんなもの。


トランプと一緒にエアフォースワンに乗っていた代議士だか事務員だか秘書(男)だかの新型コロナ感染が確認されたらしい。トランプはじいちゃんだし、もし本人にも感染していたら大統領選どころじゃなくなるね。うっかりしたら死んじゃうかも。もしも現役大統領が病死したらどうなるんだっけ? 第二次大戦末期にフランクリン・ルーズベルト大統領が死んだあとは、副大統領のトルーマンが後を継いだけど、そうじゃなく、大統領選の最中に再選を目論む大統領が死んだら、共和党はイチから大統領候補を立てるのか? それとも、現役の副大統領を、死んだ大統領の代わりの候補にするのか? まあ、どうでもいいけど。

今、ウィキペディアでちょっと調べたら、フランクリン・ルーズベルトって、歴代アメリカ大統領の中でただ一人4選した大統領(今は法律で大統領は2選までと決められている)で、しかも、唯一の、重度の身体障害を持った大統領だったと書いてあった。両脚が不自由だったらしいね。

ちなみに、アメリカ大統領の「ルーズベルト」はこれまでのところ二人いる。今言った第32代のフランクリン・ルーズベルトと、第25代と第26代のセオドア・ルーズベルト。映画『LUCKY』でリンチ演じるハワードがリクガメ(百歳)のルーズベルト(ハワード曰く、リクガメには「王の気高さとおばあちゃんの優しさがある」)がいなくなったと言った時、ほかの客が「どっちのルーズベルトだ?」と訊いたのはそういうわけ。答えはどっちでもない。

2020年3月9日月曜日

金色に光る真鍮の潜水服は、この身を守ってくれる防具であると同時に、外界との交流を著しく妨げる妨害でもある。だがしかし、ここではやむを得ない。この場所は、ナニカ空気(つまり地球の大気)以外のもので満たされていて、この真鍮の鎧なしでは5分と保たないのだ。

今潜水服と言ったが、この場所を満たしているのは水でもない。水ではないばかりか、おそらく液体でもない。それどころか、物質の相にある固体・液体・気体・プラズマのどれとも違うように思える。印象として最も近いのは靄だが、ならばやはり気体か? しかし、この場所を満たすものにはナニカしら液体めいた性質があり、たとえば、物を落とすと、その落下速度はややゆっくりになる。単に重力が少し弱いのかもしれない。

物腰の柔らかい若い男が用意してくれた「取って置きの紅茶」も、潜水服のせいで味わうことができなかった。相手もそれをとても残念がった。

赤い髪に、タートルネックの白いセーターを着て、細い長い二本の脚に黒いジーンズを履いた物腰の柔らかい男は、歩く時に、足をそっと持ち上げ、またそっと下ろす。

深海プールの「水面」から(何度目かの)顔を出した時、物腰の柔らかい男は紅茶を淹れている最中だったが、気配に気づいて振り返り「おや」と言った。それから紅茶を淹れ終わるまで少し待つように言い、紅茶を淹れ終わると、潜水服の手を取ってプールの上に引き上げてくれた。プールサイドには接客用のソファがちゃんと設えてあった。

物腰の柔らかい男の話では、ここはまだ大分「下の階」らしい。最上階に行くまでにはこの先何度も深海プールに飛び込まなくてはならないと言う。

「しかし最上階にまで行けば、あなたは素晴らしいものを得ることができるでしょう。いや、それはあなたに限った話ではありませんよ。そこに行きさえすれば、誰もが真の幸福を得られると、ワタクシは確信しています」

物腰の柔らかい男に改めて訊いてみた。実際そこは「最上階」なのか、それとも「最下層」なのかと。

「深く深く潜ることで辿り着く場所が最高の高み、ということになりますね」

物腰の柔らかい男は、ワタクシだけが申し訳ない、と言って、さっき自分で淹れた紅茶を啜った。

物腰の柔らかい男とは「飽きること」について話をした。すなわち、人間が最後には世界の全てに飽きてしまうことにこそ、人間の不幸の源があるという話だ。

2020年3月8日日曜日

本木が樹木希林の目の前で内田裕也を殴った「この際だからやっちゃいなさい(by 樹木希林)」事件の顛末を、『土曜スタジオパーク』に出演した本木自身が面白く可笑しく話しているのを、サービスが始まったばかりの「NHK+」で面白く見た。「NHK+」って再生箇所の途中から再生を「共有」できてすごく便利。因みに戦国大名には何の共感も覚えないので『麒麟』の方の話は観てない。


東日本大震災のときに役場の職員40人が犠牲になった大槌町(この震災で地域の長が犠牲になったのはこの町だけらしい)を取り上げたNHKスペシャルを観た。地震発生後いち早く独自の判断で、高台の公民館(緊急時の災害対策本部にすることがあらかじめ決められていた)に逃げ上がった福祉課の連中は無事だったが、それ以外の役場職員は、町長を含め、判断がつかない状態で30分ほど「麓」の役場の駐車場でモタモタしているうちに、やってきた大津波に飲み込まれてしまった。そのとき役場にいた連中で助かったのは、ギリギリでなんとか屋上までたどり着いた15名ほどと、建物の二階で溺れかけていたときに窓の存在に気づきそこから建物の外に出ることができた広報課のナントカさんと、、高台の様子を見に行くように指示されて、少し前に役場を離れた災害対策課のナントカさん。

思うのは、こういう状況で、正体は[お上や専門家の指示の「仲卸」にすぎない]組織の長だの上司だのの指図を待っているうちに、手遅れになって死んでしまうのは絶対に嫌だってこと。こういう[長くても百年そこそこしか生きない存在の人間]なら[誰にとっても本質的に「未体験」な緊急事態]に自分が巻き込まれた場合には、結果的に間違った判断になったとしても、自分で下した決断に従ってさっさと行動した方が、同じ死ぬにしてもきっと後悔は少ないだろう。



任天堂の代名詞「マリオ」のジャンプが、異様に不自然(特に「スーパーマリオブラザース」系の重力のかかり方や空中での方向転換などが極めて不自然〕なのは、そもそもマリオがマリオネット(操り人形)で、上から糸で吊るされた人形のジャンプを「再現」しているからなのだと気づいた瞬間に、妙に合点が行って、一応納得もできた。しかし、だからと言って、操作している時の気持ちの悪さが治るわけじゃない。自分の中で「マリオシリーズ」は、これまでもこれからもずっと「気持ちの悪い操作感のゲーム」の代名詞で…