今は、人や物を運ぶのに馬や牛を使うことはないし、畑を耕すのにも馬や牛を使うこともない。つまり、主要で日常的な作業や業務にそういう生き物を利用することはない。それは、動物の権利云々よりまず、生き物よりも機械の方がなにかと都合がいいからだ。
逆に言えば、生命現象依存型の労働機械には不都合がある、ということ。
馬や牛は、まず何よりも生き物であり、彼らを作業可能な状態に保つためには、彼らの基盤である「生き物であること」を保たなければならない。まどろっこしい言い方をやめれば、生命現象の要求を満たさなければ、牛や馬を「機械」として使うことができない。これは、純粋な、所謂「機械=machine」には存在しない要求だ。もっと言ってしまえば、本来、不必要な要求だ。
或る作業や業務に於いて、生命現象の要求を満たさなければならないのは、そうした作業や業務に用いている「機械」がたまたま生き物だからだ。
何の話だろう?
人間と新型コロナの話に決まっている。
今やっと、人間は、様々な業務を人間にやらせておくことの「本当の不都合」を実感し始めた。感染拡大を防げないウィルスの「オカゲ」で。
今回のコロナ騒動で、人間社会が支払っている「代価」の多くは、ほぼあらゆる業務に[生身の人間]、すなわち生き物、つまりは[生命現象依存型の労働機械]を用いてきたことが原因になっている。
想像してみるといい。今、生身の人間が行なっている様々な業務を、無機物の機械がこなしていたなら、新型コロナウィルスが社会の与える影響はもっと限定的になる。
たとえば、(無機物の)機械の医者が診察し、機械の看護師が看病をしているなら、「病院のスタッフに感染が広がる」ことはない。
あるいは、スーパーのレジや品出し、あるいは宅配業、あるいは警察や消防や、市役所や、幼稚園や老人ホームで働くのが、全て人型機械なら、彼らが感染者となって、労働力が失われることもない。
更に大きいのは、幼稚園や老人ホームやあるいは学校、飲食店などに、利用客である生身の人間が、感染を恐れて誰も来なくなって、それらが休業になっても、そこで働く[機械の労働者]たちが「食いっぱぐれる」ことはない。なぜなら、彼らは機械の従業員は、生命現象ではないからだ。
労働力を生命現象に依存することの「不都合」を、人間は、馬や牛を放棄した時点で理解していたはずである。実は人自身も、その「不都合」のひとつなのだ。