2020年4月25日土曜日

特定の環境に最適化して繁栄を謳歌している存在は、その環境が変化し、別の環境と置き換わった時に「絶滅」へと向かう。そして、それまでは日陰者に過ぎなかったものの中から、新しい環境にうまく適応するものが現れ、次の繁栄者としての地位を獲得する。

これが言わずと知れた「自然淘汰」の原理である。

今回のコロナ騒動は、産業や商業つまり「金儲けの方法」にとっての「自然淘汰」である。すなわち「不特定多数の人間が一箇所に集まった環境」が、もはや「許されないもの」となることで「失われ」、その結果、その「環境」に最適化していた多くの産業が「死に絶える」。

観光・娯楽・芸能・外食等の産業がアテにし、なおかつ自ら積極的に生み出そうとしてきた「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」は、コロナ以後「危険な、できうる限り避けるべき環境」となる。

仮に「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」以外の環境での「金儲け」の仕組みを見つけ出して「生き延びる」ことができた観光・娯楽・芸能・外食等の産業があったとしても、既にそれらの産業のアリヨウは(その呼び名を除けば)従来のものとは全く別物になってしまっているはずである。まさに「自然淘汰」。

「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」をアテにした産業は、規模を大きくすればするほど危うさを増す。これは「投資額が大きくなるほどに損失のリスクも大きくなる」という商売一般の単純な原理としての話ではない(その場合は、単に「やり方次第では集めることができたはずの人間を、結果として集めることができなかった」ために損失を出す、という、ただそれだけのことだ)。

そうではなく、「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」そのものが潜在的に持っているリスク=危うさゆえに、その「環境」を全面的な前提とした産業に大々的な投資をすることが大きなリスクとなるのだ。

つまり、人間は生き物であり、これからも感染症から完全には自由になれず、従ってこれからも、「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」そのものを、それをアテにしている産業や商売の工夫や努力や人気とは全く無関係に「強制排除」せざるを得ない事態が起きうるということ。

「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」は、鰊(ニシン)御殿を建てた嘗ての鰊漁師にとっての「鰊」と同じくらい「アテにならないもの」だった、ということを、今回の「コロナ騒動」は教えてくれたわけである。