2020年4月28日火曜日

『映像研(アニメ)』→『映像研(ドラマ)』→新型コロナ騒動→『キングダム(アニメ)』中断→『コナン(未来少年)』放送開始。即ち『映像研』からの『コナン』。『映像研』にはナニカある。


今回のコロナ騒動以後、労働者は「感染症に強い」仕事や「感染症対策ができている」仕事を就職先として選ぶようになるだろう。また、自営業者や企業家も、同様の[「感染症耐性」のある仕事]をやろうとするようになるだろう。少なくとも「この仕事はパンデミックが起きた時に大丈夫か?」が職業選択の際の勘案要件になるだろう。それは、自らが感染症に感染する危険がない仕事という意味ではなく、パンデミックが起きた時の「地球規模の経済停止状態」に巻き込まれることがない(少ない)仕事、という意味だ。ともかく、2020年を境に、世の中のシゴトのアリヨウ、ということは、社会そのものが大きく変わる。それも、地球規模で。


映画版の『イデオン』のラストや『ガンダムUC』が「ダメ」なのは、「死人」たちだけで対話している場面が描かれるからだ。初代の『ガンダム』が「大丈夫」なのは、「死人」のララァと言葉を交わしているのが、生きているアムロだから。「死人」たちだけのヤリトリで場面が成立してしまったら、生きている人間の世界の全てがただの「夢」になってしまう。生きるの死ぬの、殺した殺されたと大騒ぎしていることも、何億という人死も、命と引きかえ悲劇的英雄的行動も、全ては「茶番」になってしまう。

死んだあとも、その人間が知性現象としてそのまま存在し続け、しかも生きている時よりも、自由で安らかで聡明になっている様子が、生きている人間の窺い知れないところでの「事実」として描かれてしまえば、生きている人間の[生きるための苦闘]の全ては、子供が予防注射を怖がって泣き喚いているのと変わらない[無知で未熟な空騒ぎ]でしかなくなる。

「日常」として「死後の世界」を描いている作品なら問題にはならない。しかし、厳しい状況としての人の殺し合いが舞台の物語で、作品の最後の最後に、それまでに死んだ登場人物たちが「死人」のまま「事実」として登場し、しかも生きている人間のように考えたり振舞ったりしてしまえば、「人が殺しあう状況」そのものが、物語の中で更に「虚構」となり、つまりは、長々と語られた物語の全てが、最後の最後に「劇中劇」化してしまい、作品世界は観客の目前で霧散する。