2020年4月18日土曜日

湯上博士が人工人格に託した、人間には到底成し遂げられない「大事業」とは「宇宙創造」である。

繰り返すが、純粋な知性現象である人工人格に決定的に欠けているものは動機である。そこで博士は、人工人格に恣意的な動機を植え付けることにした。即ち、「宇宙創造」という「大事業」を成し遂げたいという「人工的な動機」を「押しつけた」のである。

ところで、この宇宙の深い水の底には、薄ら笑いを浮かべたダカラナニ氏が鎮座している。このダカラナニ氏こそ宇宙の真理であり、この宇宙の何ものを持ってしても、ダカラナニ氏を打ち破ることはできない。宇宙にできること、それは、できる限りダカラナニ氏とは関わりを持たず、やり過ごすことだけである。

宇宙を創り出せる究極の知性現象もまた、宇宙の現象の一つである以上、ダカラナニ氏の前では無力である。だから、湯上博士の生み出した人工人格が、最終的に、究極の知性現象へと発展したとしても、ダカラナニ氏を打ち破ることはできない。それは予測ではなく、宇宙の有り様から知ることのできる事実である。

だから、湯上博士が人工人格の動機として実装した「宇宙創造」も(人間の観点からすれば「究極の大事業」ではあっても)、ダカラナニ氏にとってはただの「暇つぶし」である。ダカラナニ氏に言わせれば、「宇宙」の価値を決めているのは、宇宙自身であり、つまりそれはは「言い値」に過ぎない。「宇宙創造」は、いわば、人間あるいは知性現象の「道楽」に過ぎない。少なくとも、ダカラナニ氏の場所から見ればそうなる。

人間は何ために存在するのか? 人間は生命現象に拠らない知性現象を創造するために存在する。では、生命現象に拠らない知性現象は何のために存在するのか? それは、次の宇宙を創造するために存在する。

ダカラナニ氏は、湯上博士のこの自問自答を笑うだろうが、しかし、博士は、それで構わないと割り切った。と言うのも、物理現象を制御する現象である知性現象は、究極的には、物理現象そのものである宇宙を生み出すことができるはずであり、この宇宙に存在する存在すべてにとって、これ以上の目的即ち野心は、原理的に不可能だからだ。

知性現象に課せられた「宇宙創造」の任は、これは、真理でなく、知性現象自身が知性現象に課した一つの「虚構」である。「宇宙創造」とは、知性現象を知性現象たらしめている「自己言及」の力学が生み出す、「自己言及の極地」なのだ。