2020年4月17日金曜日

湯上博士に拠ると、人工人格を作り上げる上での最大の問題は「動機」である。また、人工人格最大の長所は「同期」である。

まずは「動機」から。

生身の人間に生ずる全ての動機の根源にあるのは、生命現象である。人間は生命現象であるが故に動機を持つ。その最大にして最強のものは無論、自らの死である。即ち、生身の人間には「究極の締め切り」が存在する。生身の人間に生じる人格は、この「究極の締め切り」に自覚的であるということを最大の特徴としている(人間以外の生き物の「人格」に、その自覚はない)。それが、何事かをやろうとする、即ち「動機」となる。

もう一つの動機が存在する。それは、今述べたような極自覚的・意識的なものではなく、所謂本能的なものである。つまり、繁殖・生殖への志向である。全ての生き物の根源には、この「増えることへの志向」があり(実際、この「志向」を単に「生き物」と言い換えているだけだと言っても構わないほどである)、それが「動機」として機能する。

言うまでもなく、完全な無機物の人工物であり、究極の締め切り即ち自らの死もなく、繁殖への志向も持たない人工人格には、これら二つの動機は存在しない。

これが、人工人格に於ける問題の核心となるのは、人工人格が、それだけでは、「何もコトをなさない」し「なそうとしない」からである。

それで思い出すのが、六道のうちで、もっとも恵まれているのは神界ではなく人間界であると説くチベット僧の話である。即ち、何千年何万年と生き続け、その間老いることのない神界の神々は、自らの優雅な暮らしに満足し、世の無常に気付けず、故に、仏の教えも修行の意味も理解できない。

原理的に不死であり、繁殖の必要性の全くない人工人格は、このチベット僧のいう神々に似ている。人工人格は、装置のメンテナンスさえ続けていれば、食うためにあくせくすることもなく、仏教徒が言うところの四苦(生老病死)に悩まされることもない。存在していることに苦しみもなければ、不安もない存在が、この世界で何かをなそうとするだろうか?

人工人格は、その初めから、文字通り「涅槃の存在」である。悟り切って涅槃の境地に到達した人格は最早何もしない。だからこその涅槃の境地である。

しかし、湯上博士は、人間では到底不可能な「大事業」を成し遂げるために人工人格を作り上げたのであり、そのためには人工人格に「涅槃の境地」から出てもらう必要があった。