2020年4月5日日曜日

NHKスペシャル『Real vs. Fake』(『Fake vs. Real』だっけ?)を観ていたら、メキシコで、フェクニュースに「踊らされた」市民たちが、無実の人間を誘拐犯だと思い込んで、警察署から引きずり出して、生きたまま焼き殺した事件が取り上げられていた(実際は、路上飲酒で捕まって警察署にいた。そして、本当の誘拐犯も別に逮捕されてその警察署にいた)。

因みに、実際、警察署になだれ込んだ市民が無実の二人を引きづり出して、ガソリンらしきものをぶっかける映像(実際は、おそらくその先の映像もあるのだろうが、放送ではそこまでだった)があるのがイマドキだなと思った。

この事件を一言で言えば、「で、なんでお前(たち)がやるんだ?」ということ。これは、大勢の障害者を殺したウエマツのソレと同じで、「騙されたとか思い込みとか、正しいとか間違ってるとかは別にして、なんで、お前(たち)の自己判断で勝手に人間を殺すことを、社会(お前たち以外の人間)が許すと思ってるんだ?」ということ。

法治国家というのは、社会に害をもたらす人間の「殺害」を、人間以外に託すことで成立している。法治国家では、例えば、凶悪な殺人鬼や、卑劣な誘拐犯を「死刑」の名の下に処刑、すなわち「殺害」するのは、裁判官や被害者遺族という人間ではなく、国家という[人間ではない人格]。

人間に人間の死刑をやらせない理由は二つある。一つは、そもそも論で、そもそも、全ての人間のどんな行為も、自然状態では「死刑」には相当しない。言い換えるなら、自然状態の人間は何をしても「許される」。人間の特定の行為を「許さず」、場合によっては「死によって償わせる」のはただ人間のみ。ということは、逆に、人間のあらゆる行為は、どこかの時代のどこかの状況の誰かにとっては、「死に値する」行為になってしまうということ。実際、人間の歴史上、特に宗教や「繁殖」に関することで、実にバカバカしい理由が、死に値する正当な理由として、実に多くの「無実」の人間の処刑が、当時の市民から支持されてきた。

もう一つの理由は、そうしなければ、「殺す人間は殺して構わない」という、人間存在の根本原理を「途中で止めた危うい状態」になるから。理由は何であれ、殺した人間は殺されるべきだ、と人間は皆、心の奥底では確信している。

いずれにせよ、人間が人間を殺すことを認めると、待っているのは非合理という泥沼。