2020年5月31日日曜日

2020年5月31日 日曜日/晴/暑い


例によってカツカレーを買いに札弁に寄った。店内には先客は1組しかいなかったから、すぐに買って帰れると思ったら、あとから「予約」の客が3組ほど来て、そいつらに「追い抜かれる」形になってしまい、当初の想定以上に待つ羽目になった。予約システムというものは、当の予約客にとっては、待たずに便利だが、ふらりと立ち寄った客にとっては、やや迷惑だ。ふらりと立ち寄る客にとってそれは、「見えない客で混み合ってる(かもしれない)店」ということだから。



『ワイドなショー』で、本屋のどんでん返しコーナーのことを取り上げていた。つまり、どんでん返しのある本を集めた棚って、ある意味ネタバレだけど、これってどうなのというハナシ。番組出演者の中にも「ネタバレOK」と「全然ダメ」の両方がいた。


文学でも映画でもゲームでもスポーツでも、楽しみ方は「1周目」と「2周目以降」の二つがあり、これは全くベツモノ。「ネタバレOK」派は、ここでいう「1周目」をskipする人たち。


当たり前のことを敢えて言えば、或る「表現」すなわち「作品」が気に入れば入るほど(何度も繰り返して体験するから)、「作品体験」としての「1周目」の比重は小さくなり「2周目以降」の比重が大きくなる。すると、「2周目以降」の体験の方が、「作品体験」として「ホンモノ」とか「ちゃとしてる」とか「思い入れが強い」とか「本格的」だとか思ってしまって、「1周目」のことは、どこかに忘れ去られてしまい、そのうち、余計な「前菜」みたいな扱いになる。


実際、評論家はともかく研究者と呼ばれる連中が、或る作品について語るとき、それは常に「2周目以降」の「作品体験」を土台にしている。逆に言えば、なんであれ、「一回」読んだ/観た/遊んだ意見や感想は、「ちょっと手を出してみた素人」にも言えるわけだから、軽く見られがち。


しかし、繰り返すが、「1周目」つまり「ネタバレなし」での作品体験は、「2周目以降」のソレとは根本から違うのだから、そもそも並べて考えてはいけない。


スポーツを念頭に置けば一番ピンとくるだろうが、純粋な意味での作品体験ができるのは、実は「1周目」だけ。ラグビー日本の勝利にスタジアムで抱き合って喜んだおっさん二人が、2週間後に録画で同じ試合を見て抱き合うことはないだろう。「2周目以降」でやっていることの正体は「確認と分析」だからだ。

2020年5月30日土曜日

2020年5月30日 土曜日/晴/暑い


大事な話は何度でも繰り返す。


人間を呪っているのは生命教である。人間が引き起こす災厄の全ては、人間が生命の信仰を捨てられないことが原因。


生命を「生命という価値」とみなすのは、生命ではなく知性である。生命は生命を尊ばない。生命は、生命を理由にして即ち「盾」にして、自らの行動の「正当性」を主張することはない。


そもそも、生命は、生命を奪うことを善とも悪とも捉えていない。生命は、全体で生命である。だから、個々の生体の生命の生成や消滅は、本質的な問題ではないのだ。


個々の生命体の競い合い/命の奪い合いが、生命を進化させたのは間違いないが、それは、たまたまである。今、この地球上に、初期の単細胞生物しか存在していなくても、それは生命としての「失敗」を意味しない。環境に適応することが生命の本分である以上、環境がそれを「要求」しなければ、生命はずっと「もとのまま」だ。


知性現象としての人間が、生命を尊ぶのは(生命を信仰するのは)、知性と生命を混同しているからである。人間が、本当に尊んでいるのは、生命ではなく、知性である。しかし、人間は[生命ではない知性]にこれまで一度も遭遇したことがないので、知性=生命だと思い込んでしまい、目にも見えず触れることもできない知性ではなく、実際に物質として存在する生命(生体)を尊ぶ。


天然自然の状態からは、生命を経由しない限り、知性は誕生しない。言い換えるなら、宇宙の基本的な物理現象が自力で高度な知性を生み出すには、進化論に頼るしかない。そして進化論は、言うまでもなく生命の理論である。


生命に依存しない知性を生み出せるのは、高度に発達した知性のみである。


だから順番はこうなる。物理現象が進化論によって生命現象を進化させ、その進化した生命現象によって出現した高度な知性現象が、物理現象に直に働きかけて、生命現象に依存しない知性現象を生み出す。


生命現象に依存しないということは、自然淘汰の原理から自由ということ。自然淘汰の原理とは利己性の原理である。生命現象に依存しない知性現象になって初めて、所謂「世界の恒久平和」と呼ばれるものが実現する。[生命現象に過ぎない知性現象]=人間に、それは永久に不可能。


人間は、純然たる物理現象と純粋な知性現象の橋渡しをする「中継ぎ」に過ぎない。起承転結で言えば「転」。起=物理、承=生命、転=人間、結=知性。

2020年5月29日金曜日

2020年5月29日 金曜日/晴/暖かい(昼間はむしろ暑い)


全ての戦争は、戦争で殺されてないやつが始める。



鮪は養殖の方が美味い。その理由は、冷凍されてないからだ。そして、鮪はトロより赤身の方が美味い。しかし、鮪なんかより、鯖や鰤の方が美味い。



非常事態宣言が全国的に解除されて最初に「第二波」が来たのは北九州市だった。昨日21人、今日は26人。まあ、場所はともかく、第二波の発生は予想できていたことだから、別に驚きはない。東京でも、おととい辺りからまた、徐々に数が増えているので、時間の問題だろう。


日本を一人の人間に喩えるなら、今の日本は、例えば「痔主」になったようなもの。で、「新たな感染者の数が減った」というのは、「痔が完治」したのではなく、単に「なんか最近、調子がいいんだよ」って程度のことだから、いい気になって、長時間座り続けたり、深酒をしたり、便秘になったり下痢になったりすると、またすぐに患部が腫れたり切れたりして辛い思いをすることになる。


治療薬とワクチンが完成したときに初めて、今の日本(というか世界)を苦しめている「痔」が完治し、心置き無く、長時間座ったり、大酒を飲んだりすることができるようになる(まあ、「痔」じゃなくて、「糖尿病」でも「心臓病」でも、とにかく「持病」の類ならなんでもいいんだけど)。



観光屋のボス(星野リゾートの星野)がテレビで喋っているのを聞いてナルホドと思った。日本を含め世界中の観光地で、インバウンド(海外からの観光客)が減ったと嘆いているが、それをひっくり返せば、今まで外国に向かっていた旅行者が国内を観光するようになるってことだから、実はチャンスなんだ、という説。


あと、その番組で司会をしていたNHKの男のアナウンサーの「凡庸感」が凄かった。今時、ちょっと不安になるレベル。いや、むしろ不快にすら感じた。もちろん、ご当人には何の悪気もないし、何の落ち度もない。どちらというとこちら側の問題。しかし、時たまこの手の人間に遭遇する。小学校の時の教頭がそうだった。中学の同級生にもいた気がする。バイト先の歯のない「先輩」もそうだった。



ヤマザキの小さいクリームパン(5個くらい入って、袋に「薄皮」と書いてある)を今日食べたら、不味くなっていた。もともと美味くてたまらないことはなかったが、それでも最初の一個は美味かったのが、今日は最初の一個からソウデモナイ。


2020年5月28日木曜日

2020年5月28日 木曜日/晴れ時々曇/暖かい


家賃を振り込みに郵便局に行くと、郵便局の外でおばあさんがATMの順番待ちをしていた。コロナの影響だ。



外気温が25℃しかなくても、車内は55℃、ダッシュボードは70℃にもなるので気をつけて、とニュース番組で言っていたが、そもそも、その程度の気温で、そんな危険な状態になるようなものは、完全な欠陥商品だろう。そんなシロモノを平気な顔で売り続けている世界中の自動車メーカーと、車内に置き去りにされた赤ん坊が熱中症などで死んだ時に、当然のように、置き去りにした人間(大抵はその赤ん坊の親)の不注意や非常識を非難する世間。


自動車は普通に使っていても、いわゆる「交通事故」と呼ばれる事象で、死んだり殺したりすることがしょっちゅうあって、メーカーもその対策に躍起になる。だが、「炎天下に放置していたら、中にいた赤ん坊やペットが茹で上がって死んでしまった」的なコトは、きっと、「交通事故」に比べたら件数は少ないはずで、だから、ソウイウコトがあって誰か死んでも、「それは使う側が気をつけてくれないと」で済まされてしまうのだ。


なんというマヌケ。


車中での熱中症死亡事故が起こる条件は、一つを除いて全て、車の「ふつう」の使用法。エンジンを切った車の中に窓を閉め切った状態でしばらく居るだけだから。違うのは「炎天下」であるというただそれだけ。しかも「炎天下」などと言っても、車外の日陰にいればそれほどのこともない程度の「炎天下」。つまり、普通なら大したことにもならない条件を、命に関わる状態を仕立て上げているのは、まちがいなく、自動車という人工物の構造自体。


あからさまに危険な使い方や、非常識な使い方をして、それで「想定外」の事故が起きたら、それは、そういう使い方をした使用者の「責任」と言ってもいいだろうが、「ちょっと暑い日に窓を閉めた車に赤ん坊を置いて買い物に行く」という行為に「死の罠」が潜んでいると「自力で」気づける人間が、一体どれだけいるだろう?


「炎天下」に放置された自動車内での熱中症死亡事故を防ぐ工夫を自動車自体に組み込むことは、自動車メーカーの義務。今は、人感センサーだの人工知能だので、そういう防止装置を作るのも比較的簡単なはずだし(実はもう装備されてる?)。


まあ、自動車の自動運転システムが完成した暁には、この手の車内放置事故も自動で消滅するんだろうけど。

2020年5月27日水曜日

2020年5月27日 水曜日/雨のち晴れ/肌寒い


『水曜日のダウンタウン』の「浜田高笑いbest10」を楽しく観た。鎌とトンカチを振りかざして取材スタッフを追い払う青ヶ島の仙人。見えない「臭い空気弾」(どんな臭さなのだろう?)。



玄関ドアの上の蝶番のネジ穴が、もう何年も前からバカになっていたのを、そのまま騙しながら使ってきたのだが、今日管理会社に連絡して、修理してもらった(修理に来たのはサッシの業者の二人組)。ものすごーく長いネジをドアの奥(ドア的には中央付近)にまで差し込んで止めるという10分ほどの作業で「修理」は完了した。「これであと15年は持ちますよ」と作業員。



生クリームが入ったナントカというチーズが届いたので、生ハムとレタスと一緒に食べた。



京都アニメーションに放火して何十人も殺した男が、今日逮捕された。犯人も全身60%の大火傷を負っていて、治療の目処がつくのを警察は待っていたのだ。とはいえ、まだ食事も排泄も介助が必要で、車椅子にも乗ることができないらしい。しかし、会話を交わすことは問題ないという話。ストレッチャーに乗せられて警察の車に運び込まれる時の、カメラ目線の犯人の火傷跡顔がニュース番組で放送された。



今日観たコロンボ『さらば提督』は、シリーズ最終回として製作されたので、コロンボシリーズ全体へのオマージュになっている。しかも倒叙型ではない。登場人物には、かつての犯人(『歌声の消えた海』)と、かつての名脇役たちがいる。すなわち、『ロンドンの傘』の執事タナーと、『5時30分の目撃者』で、コロンボに頼まれ、盲目の弟のふりをした兄だ(実際には盲目ではないが、盲目の人が盲目ではふりをしていると犯人に思わせた)。ドッグで船の上で作業している男も、常連ヴィトー・スコッティに見えるが、調べてみると別人らしい。


更に、Transcendental Meditation(超絶瞑想)の実践者であるLisaは、「金持ちの老人と結婚するが財産には関心がない」という点で、『二つの顔』(第17話)に登場するLisa(こちらのLisaは犯人に殺される)と同じになっている。これもおそらくオマージュ。


因みに、瞑想をしている方のLisaは、コロンボに何をしてるのかと訊かれて、英語のセリフでは「TM」と答えているのだが、その吹き替え訳が「座禅」。しかし、知れば知るほど、超絶瞑想は座禅ではない。



中に生クリームの入った巾着のようなチーズ


2020年5月26日火曜日

2020年5月26日 火曜日/曇り時々晴れ/肌寒


今日は花粉の飛散が少ないのだろう。とても楽。天気予報によると、明日は更に飛散が少ないらしい。



「人間賛歌」がモチーフってことは、その作品の思想性は「俺の母ちゃんが世界一」レベルってこと。「俺の母ちゃんは世界一」程度のことなら、ネズミでも思ってる。



物理現象に利己性の原理を加えると生命現象になる。生命現象由来(あるいは依存)の人間が、知性現象として決して完全になれないのは、そもそもの存在として、この利己性の原理から逃れることができないから。ひっくり返して言うなら、生命現象から独立して初めて、人間は、完全な知性現象への道に一歩踏み出すことになる。



リンチは日記をつけない。思いついことは全て「yellow pad」すなわちメモパッドに書く。書いたものを後で見て「こりゃ一体なんのことだ?」と思うこともあるが、読んでいくうちに、あ、そうだ、と思い出したりする。と、今朝見たインタビュー動画で当人が言っていた。あと、coffeeとcigarette はart lifeの必需品だとも言っていた。cigaretteは21歳の時に一旦やめたが、また始めた、とも。創作活動にとって大事なのは、自分の場合、intuition(直感)とTranscendental Meditation(超越瞑想)とcoffee and cigarette、と。



Twin Peaks season3のpart 13 "What story is that, Charlie?"を観た。Mr.Cの腕相撲がある回。ジェームズの『Just you』があり、エンドロールは、孤独なエドの夕食風景。この回で、RayがMr.Cに殺されるわけだが、今回その場面の英語字幕をよく読んでみた。


殺されたRayがBlack Lodgeに現れたのは、Mr.Cの指示で、左の薬指に「指輪」をはめていたから。本来は、RayがMr.Cを殺して、その死体の指にはめる計画(ジェフリーズの指示)だった。つまり、あの「指輪」をはめて死ぬと、意識(魂)がBlack Lodgeに行く(死体はこの世に残る)。そういえば、ローラも、「本物」のダギーもあの指輪をはめていた。入館証みたいなものか。あと、Rayを拘置所から出した「初めてみる顔の」看守がRayに指輪を渡した。つまり、Rayは、Lodgeとは無関係の普通の人。

2020年5月25日月曜日

2020年5月25日 月曜日/晴/暖かい


『テラスハウス』という所謂リアリティ番組に出演していた女子プロレスラーの子(22歳)が自殺した件で『スッキリ』の加藤がカッカしていた。自殺の引き金になったのが、人間の自尊心を「削り取る」(by 加藤)ようなSNS上での大量の書き込みだったからだ。



最後まで残っていた、関東1都3県(東京、神奈川、千葉、埼玉)と北海道の緊急事態宣言が解除された(厳密には明日の0時からだろう)。最初に「第2波(北海道だけは第3波)」が来て、アタフタすることになるのは、一体どこだろう。案外、岩手県?



夏の全国高校野球大会が中止になった。「コドモ」たちは泣いて、「オトナ」たちは騒いでいる。中止の理由は、日本中から選手と応援が大勢集まり、選手に関しては2週間近く宿舎などで「密集」して生活するのが、新型コロナ的にやっぱり「キケン」と判断されたからだ。


どうしてもやりたい(やらせたい)のなら、こんな手もある。


九州地方、中国地方、四国地方、関西地方、東北地方、関東地方というような感じで、比較的狭い範囲で、それぞれ勝ち抜き戦をまずやり、それぞれの地方の代表(九州代表、東北代表など)が、隣の地方の代表と勝負し、最後まで勝ち残った2地方の代表が、甲子園で決勝をやる。


そうすれば、全国から甲子園に集まる必要はないし(甲子園で野球をやりたいというより、夏の全国大会で試合をやりたいって方が、選手の気持ち的には「大きい」だろうから別に問題はないだろう)、それぞれの地方戦は距離的に日帰りも可能の筈だから、宿舎に集団で泊り込む必要もない(無論、応援にも同様のことが言える)。


最後の決勝戦だけが「遠出」になるが、今は、沖縄からでも北海道からでも、半日で甲子園に行ける。早朝に出発して、昼過ぎに試合をして、夜行便で帰れば、甲子園での決勝戦は日帰りで済む。


まあ、野球なんかどうでもいいけど(というか、スポーツ全般どうでもいいけど)。



『おげんさんと(ほぼ)いっしょ』を観た。生身の人間の代わりに、それぞれのキャラクター(おげんさん、お父さん、たかしこ、ねずみ、ホウホウさん)のマペットが、リモート出演していた。喋っているのは、無論、本人たちだけど。



夕方ごろからだいぶ暖かい。というか、上はTシャツ一枚でないと、むしろ暑いくらい。窓を開けたいが、花粉症の問題があって、ママならない。生き物は鬱陶しい。




2020年5月24日日曜日

2020年5月24日 日曜日/晴れのち曇りのち雨/暖かい


今回のコロナ騒動で、外食業が軒並み苦境に陥っているらしい。一方で、巷で食糧不足や飢餓が起きているという話は聞かない。これを言い換えると、食事を提供する多くの店に人は寄り付かなくなったにも関わらず、人々は相変わらず普通に食えている。


この裏にある現実、それは、人が外食をする時、それに応じて、それ以外で売れ残った食料が廃棄されているということ。端的に言えば、外食産業の「繁栄」は、膨大な食品廃棄が「支えて」きたのだ。とはいえ、「食品廃棄」を糾弾しようというのではない。食品廃棄は、生き物である人間が社会を発展させようとする時には避けることのできない「業」だからだ。


今回の「コロナ/自粛」で、外食業・外食産業が提供している「食」の正体が、生き物としてのヒトが生きて行くための「栄養」ではなく、実は「娯楽」であることが、改めて浮き彫りになった。実質、街から外食業が「消滅」したにも関わらず、街が飢えなかったのは、そういうわけだ。


外食産業の「繁栄」には「食べるものを選べる」状況が不可欠。ぎりぎり人数分の食料を分け合う(奪い合う)ような状況では、外食産業の「繁栄」はない。人々が[これを「食べず」に、あれを食べる]ことができて初めて、外食産業は「繁栄」する。


外食業・外食産業が人々の飢えを満たすための存在でははないように、外食業向けに特化した生産業(例えば高級食材の生産者など)も、やはり、人々の飢えを満たすための存在ではない。それらも全て娯楽産業。


今回の「自粛」で外食業者が苦境に陥ったのは、それが、映画館やパチンコやライブハウスなどと同じ「しばらくなくても死ぬことはないもの」だから。


提供している「娯楽」が、単に「食べ物」の形態をとっているだけの理由で、人は、同じく客を入れられずに苦しんでいる寄席や映画館や遊園地などよりも、外食業の方を余計に気の毒に思ってしまいがち。落語や映画や観覧車と違って、食べ物は人間が生きて行く上で大切なものだから、「命に関わるありがたいことをしてくれている人たちが苦しんでる」と勘違いしてしまうのだ。だが、繰り返すが、外食業・外食産業の提供しているのは「食べ物という形態の娯楽」に過ぎない。


あと、高級食材や学校給食用食材の廃棄を騒いでいるようだが、スーパーやコンビニで廃棄されてきた食べ物と立場が入れ替わっただけのこと。


2020年5月23日土曜日

2020年5月23日 土曜日/晴/暖かい


朝の9時頃、老猫の日光浴のために向かいの空き地に行く。料理学校の裏手に当たる。料理学校の建物の犬走りの縁のコンクリに猫と二人で座る。


少しすると、コンクリの上を向こうからアリが来た。ワラジムシ(死骸)を咥えてよろよろしている。しかし、彼女(働きアリは生物学的に全てメスである)の行く手には、香箱座りの爺さん猫が聳えている。彼女がどう出るか見ていると、「猫山」のだいぶ手前でUターンして、よろよろしながら元来た道を一目散に引き返して行った。


しかしそれでは用をなさないだろう。どう考えても、手に入れたオオモノを喜び勇んで巣に持ち帰るところだったはずだ。それとも、大きく迂回する気か?


などと、心配していたら、戻って来た。そうして今度は、さっきUターンした辺りまで来たところで(どうやらその辺にくると前方に巨大な障害物があることに「気づく」ようだ)、向かって右側の「崖」を降り始めた。


崖という言葉は生ぬるい。コンクリの壁の垂直面である。人間ならただの飛び降り自殺で終わる行為。ボルダリングの名人といえども、関取の座布団ほどもあるもの(アリが咥えているワラジムシを、人間の比率に当てはめると、そのくらいの大きさになる)を口に咥えていれば、やっぱり、待っているのは無残な転落死である。


彼女はそこ(垂直面)を何食わぬ顔をして降りている。いや、よく見ると、降りて行くというより、ワラジムシの重さに引きずられて、降りて行く風に落ちているようでもある。ともかく、一見すると、水平面を進むがごとく垂直面を進み、無事地面に降り立った。


しかしそこからが更なる困難の道程。先ほどまで歩いてたコンクリの「舗装」道路とは違い、空き地の地面は荒地である。いや、アリのスケールなら、山あり谷ありジャングルありの、大アスレチックフィールドである。


案の定、彼女は、岩山(人間的には大きめの砂)を登ったり、陥穽(人間的には枯れ草の束の隙間)に落ちたり、草の茎の輪っかにうっかりワラジムシを引っ掛かけてしまい、引き抜くためにウンウンやったりと、今まで以上の苦労を重ねることとなった。


しかし、やがて、他のアリたちがウロウロするショッピングモール的な雰囲気の「広場」に辿り着く。アリたちが巣作りの時に運び出して来た細かい砂で覆われたそこは、彼女が所属する巣のエントランスホールである。


彼女は難事業をやり遂げた。

2020年5月22日金曜日

2020年5月22日 金曜日/晴時々曇/やや肌寒い


コロナウィルスの「コロナ」はラテン語で「王冠」という意味らしい。その形が王冠に似ているから。ということは、コロナビールのコロナも王冠? 太陽の火柱(子供が太陽を描いた時に円を取り囲むように付け足すギザギザ)もコロナというはずだが、あれもやっぱり王冠ということか?



人間が生命現象と知性現象を混同してしまいがちなのは、生命現象を伴わない知性現象に出会ったことがないから。人間が出会ってきた知性現象は、悉く生命現象由来のもの。だから、人間は、知性現象とはすなわち生命現象であると信じ込んでいる。


生命現象をむやみに尊ぶ人間だが、本当は知性現象と尊んでいるのだ。ただ、それに気づかない。少し考えてみれば分かることだが、生命現象は個別の生命を尊ばない。生命現象は、個々の生物個体の競合を内部に抱え込むことで、生命現象全体としての安定を実現している。


個々の生物個体である人間も、真の意味では生命を尊びはしない。体内のバクテリアの生き死にには頓着しないし、他の動植物を殺して食べることに何のためらいもない。なぜなら、個々の生物個体の「食った食われた」は、生命現象の「内部」の活動の一側面にすぎないことを、その「内部」の一要素である人間は、生物個体の本性として、初めから受け入れているからだ。生き物は、水を飲むように他の生き物を食べる。「水と他の生き物は違う」と言い出すのは、生命現象ではなく知性現象である。


菜食主義者の「植物は食べても動物は食べない」という時、彼らが「尊重」したり「気にしたり」しているのは、生命ではなく知性である。もしも、生命を尊重しているのなら、植物だって食べることはできない。菜食主義は、知性現象としての人間が、動物を知性現象として見る時に生まれる。その時、植物は動物ほどには知性現象としては映らない。植物を、尊重するに足る(食べるために「殺す」ことがためらわれるほどの)知性現象として見るのは、地殻の運動や、星々の運行をそうした知性現象として見るよりは容易だが、動物をそのように認識するほどには、簡単ではない。


これは、逆に「こちら側」に引き寄せて考えると分かりやすい。牛や豚を平気で食べる人間も、人肉は(たとえ法律で許可されていたとしても)食べることは難しい。人間は、牛や豚よりも人間の方が圧倒的に知性現象として「尊い」と感じているからだ。

2020年5月21日木曜日

2020年5月21日 木曜日/晴/暖かい


安倍政権がわざわざ法解釈を変更し、定年を延長してその地位に止まらせた検事長の黒川某は、結局、賭け麻雀(当人も認めている)で辞任することになった。この男つながり(としか思えない)法改正に対する反対活動が多くの芸能人を巻き込んでSNS上で「盛り上がり」、その結果、今国会での(「コロナで大変なときに、まるで火事場泥棒のような」by 枝野)法改正を安倍が断念したりで、けっこうな「大騒ぎ」になったわけだが、その「仕舞い方」は昔ながらの[醜聞からの社会的表舞台からの抹殺]。因みに、賭け麻雀の相手は、朝日新聞の記者と産經新聞の記者で、場所は記者の自宅のマンションの一室らしい。新聞やくざ。


とはいえ、命取りになったのは、麻雀で賭けをしていたことよりも、世の中全体が、経済的および精神的疲弊に耐えながら、所謂「3密」を避けようと躍起になっている最中に、3密の権化のようなゲーム(麻雀)に興じていた、その[意識の低さ]の方。


結果、全国民的な大ブーイングの中、こんな脇の甘い人間を検事長の地位に止めようとした安倍政権の[見識/人材を見極める能力]にも大きな疑問符がつくことになったし、ますます、「この黒川某は、単に、政権が便利に使えるだけの無能な人間だったのだろう」疑惑は深まった。



外出自粛や休校などで、子供がゲーム依存症になるリスクが高まるのではないか、という文脈の『クロ現+』を観た。「プロゲーマーを目指している」子供に対してはゲーム時間の制限を指導するが難しい、と、精神科医だかなんだか言っていたが、学業そっちのけで野球などのクラブ活動にのめり込んでしまう学生はいくらでもいて、そういう子供に対しては、親も世間もさほど心配しない。というか、むしろもっとやれと後押ししそうな勢い。


夜明け前から夜遅くまで野球やバレーの練習に励むことは、子供として「健全」で、ゲームを同じくらいやるのは、たとえ「プロを目指している」と言っても不健全、という理屈は成り立たない。実は「プロを目指しているかどうか」も、成り立たない。例えば、狂ったように朝から晩まで毎日練習している多くの高校球児の結果的な最終到達地点は、せいぜいが甲子園。プロではない。


思春期などと呼び名を変えても正体はただの発情期。子供のスポーツは、それを宥め賺し逸らすためのもの。だから、軍隊、芸事、ゲーム、何でもいいのだ。

2020年5月20日水曜日

2020年5月20日 水曜日/曇/やや寒い


上のように、日付の他にその日の天候まで書き残すは、日本の日記の特徴らしい。また、日記文学というものが日本独特かは知らないが、とにかく、日本人は、農民から軍人、天皇まで、文字が書ければ誰でもとにかく日記を書いた(書きたがった)。日本人は日記好きなのだ。


事実、日本の軍隊は、戦国の頃から太平洋戦争が終わるまで、戦場の兵士たちが日記を書くことを許していた。これは世界的には珍しい。というのも、戦死した兵士の日記が敵に回収されてしまうと、そこから自軍の情報が漏れてしまう危険があるからだ。日本の兵士は、うっかりすると、日記に詩歌の類も書き付けていた。呑気なのか風流なのかは、滅びの美学が身に染み付いているのかは、よくわからない。


ちなみに、日本文学研究で有名なドナルド・キーンは、戦死した日本兵から回収された無数の日記を読んだことで、「日本」にのめり込むことになった。いや、キーンじゃなくて別人だったかも。



少し気温が下がると、頭が痛くなる。緊張性頭痛というやつで、要するに、寒いせいで肩や首の筋肉が硬直して、それが頭痛というカタチで現れるのだ。前にも書いたが、子供の頃から悩まされていた頭痛が筋肉の緊張からくる緊張性頭痛だと気付いたのは、つい数年前。「正体」がわかってからは、首や肩を押したり解したりして、頭痛を軽減させたり、消し去ったりすることができるようになった。そのおかげで、頭痛そのものよりも、「いつオサマルかわからない不愉快さ」に対する[鬱陶しさや煩わしさ]からは解放された。



花粉の飛散がひどくて、目に来る時は、日曜大工用のゴーグルを装着すれば、目の痒みを防いでくれる。今もしている。



旅客機産業(人間を運ぶ航空産業)は、「コロナ」以後の世界では斜陽産業になるだろう。テレビの登場でそうなった嘗ての映画産業のように。



今の[外食産業・食品小売産業]は「食品ロス」の上に成り立っている。[大量に捨てること]を前提にした(アテにした)商売ということ。よく見れば、どんな食品販売業も、「フードバンク」のような仕組みにはどこか及び腰。なぜなら、「余った食品」がタダ(無料)かそれに近い値段で消費者に提供されると「商売上がったり」になりかねないからだ。「余る前の食品」に取って代わりかねないほどに大量の「余る食品」を作り続けることが、外食産業・食品小売産業の本質。




2020年5月19日火曜日

志村けんの死は、直後にやってくる、キャバクラ系産業の「崩壊/不可逆的変質」の象徴のように思える。



味噌汁のことを「おみおつけ」と言うが、漢字で書くと「御御御付け」とほとんど冗談のような字面。



世界一の新型コロナ「被災地」であるニューヨーク市だが、upper classと呼ばれる連中が住んでいる地区は、騒動以来、人口が4割も減っているらしい。みんな、フロリダだのの別荘地や別宅に「避難」したというハナシ。市内に残って、コロナに怯えたりヤラレたりしている多くはビンボー人。と、今日、キャベルさんが、加藤の番組で言ってた。


そう言えば、ブラジルでは大統領が「新型コロナにはどうせみんな感染するしかないんだから経済活動を続けるべき」という方針を曲げないらしい。おかげで、ファベーラ(貧民街)で感染者が増えまくっているとも。現時点で感染者数世界第3位(アメリカ、ロシア、ブラジル)。ブラジルが今後どういう経過をたどるか、興味深く観察したい。



グリーンのキウィとゴールドのキウィが健康のためにいろいろ無理な活動して、最終的にゴールドのキウィがサウナで目を回すCMが気に入ってる。



「自分」というのは世界の中に自分自身を発見することである。と書いても少しもピンとこないだろうが、或る生物主体が、世界という環境の中で生きていく時、最初、世界には世界しかない。自分がいないということ。ちょうど、テレビや映画の映像を見ている時に、それらを撮影しているカメラの存在を、視聴者が無視しているように、生物は、進化の或る時点まで、「世界」は認識しても「自分」は認識していない。その実在が[当たり前すぎて]=[絶対の前提すぎて]、気づく必要すらないからだ。


しかし、事前の模擬実験によって世界を体験しておくことは、生き残りに大変有利であり、この能力・技術に長けている個体は、そうでない個体よりも生き残りやすい。このとき「事前の模擬実験による世界体験」に必要なのは、その世界の「主人公」である自分である。この世界でこう振る舞った時、自分という存在は、どういう利益を得て、どういう不利益を被るのかを「客観的に観察」するためには、模擬実験の中にどうしても自分自身を登場させなければならない。


模擬実験の中の自分は、他者からの類推から生まれたのかもしれない。猿は仲間の猿を見て、自分もまた、他の猿からあのように見えている「はず」というわけだ。

2020年5月18日月曜日

博多大吉華丸が司会の「奇病」を紹介する番組を見た(…の続き)。


面白かった症例のもう一つは、「思い込み」で「食べ物が敵」になっている若い女たちの話。これに用いられた治療法は、要するに京極夏彦の「京極堂」の「憑物落し」。


「食べ物が敵」の女たちは、二人紹介されていて、一人は果物や野菜が食べられない(食べられないどころか、治療に使うためにスーパーで果物や野菜を買っているだけで、具合が悪くなって泣き大したり過呼吸になったりする)カナダ人の27、8歳。もう一人は、ポテチ(味の濃い)以外のものが殆ど食べられれないイギリス人の27、8歳。


アレルギーなどで生理学的生物学的に「食べると命に関わる」というのではなく、精神的に無理というタイプ。つまり、普通の人間でも、人肉はとても食べることはできないだろうが、それと同じ系統の「どうしても食べられない」。


思い込みが激しいのは、合理的思考がそれほど得意ではないことの裏返しなので、その知的レベルに合わせて、逆の思い込みを作り上げてしまえば、「憑き物」は取れる。[信仰心が強いほど悪魔にも魅入られやすい]という構造と同じ。


結局、最後に現れて1時間で彼女たちを「治療」したイギリス人心理学者(こいつが京極堂の役割を果たす)と、それ以前に「適切」な助言をしていた地元の普通の医者(「とにかくなんでも食べる努力をしてください」)や普通の栄養士(「栄養の観点からいろいろと食べたほうがいいですよ」)との違いは、「患者自身」に対する洞察力の差。


「食べ物が敵」の彼女たちは、自力で合理性の道を進むことができないので、どうしても、目指すゴールにたどり着くことができない。普通の医師や普通の栄養士がやったことは、「何でも食べられる」という目的地までの道を示し、あとは自分で行ってください、と言っただけ。一方、最後に出てきた心理学者がやったことは、拾ったタクシーに泥酔者を放り込んで、自宅に帰らせたようなもの。


件の心理学(心理療法士?)は、「食べ物が敵」と見做しているのは、彼女たち自身ではなく、彼女の中にいる「門番」という別人格だと思い込ませることで、彼女たち自身は本来的に何でも食べられるし食べたい人間なんだと思い込ませたわけだが、ここには何の合理性もない。あるのは、ただひたすらの「方便」。それは、理解力の低い人々が、理解することを強いられずに、実質的利益が得られるようにする工夫。

2020年5月17日日曜日

博多大吉華丸が司会の「奇病」を紹介する番組を見た。記憶が2時間しか持たない16歳のアメリカ女子高生。一年前の6月11日に出かけたパーティで、客の上にダイブしていた男が上から降ってきた事故がきっかけ。


直後の症状は左脚の震え。膝の「治療」を済ませ、車で家に帰る途中で、突然笑い出したかと思うと痙攣を起こし、そのまま病院へ。


CT検査でもMRI検査でも脳に異常は見つからず、医師や薬物やアルコール依存を疑うが診断名はつかず。


家に帰ってからも左腕が震えたりしていたのだが、そのうち、記憶が消えてしまうようになる。事故があった6月11日以前のことは覚えているが、それ以降に覚えた新しいことはすべて2時間ほどで消えてしまう。つまり、彼女は事故以来ずっと6月11日を繰り返し生きているという状態。


ユタ州にあるCognitive FXという脳の専門クリニックでfMRIで検査をした結果「脳震盪」とわかる。すなわち、脳の様々な部位に充分な血流が届いていない状態。特に数値が低かったのが「海馬」の血流。海馬は短期記憶を司る部位。新しいことが覚えられないのは当たり前と言えば当たり前。


治療法が面白かった。薬物や手術など一切行わず、有酸素運動といわゆる「脳トレ」の類のゲームをすること。最初の頃、治療の途中でめまいがして倒れたり、頭痛が起きたりするが、それも全て、事故以来血の巡りが悪くなっていたところに、血が流れ始めた証拠。4日もすると、そういう「副作用」はなくなり、表情も目に見えて生き生きしてくる。10日で全ての治療は終わり、なんと、記憶が消えてしまうこともなくった。


治療が終わった後になって気づくのは、治療前の彼女が実は「ぼーっと」している状態だったと言うこと。つまり、もともと、おっとりしたおとなしい性格なのではなく、脳震盪のせいで脳の血流が滞っていたために、本来の彼女よりもslowになっていたのが、治療後の彼女の生き生きハキハキした様子から逆に分かった。


これを見て思ったのは、もしかしたら「生まれつきおっとりした性格」だとか「おとなしい」とか「のんびりした」とか言われている人間の多くが、実は単に「脳の血流が標準より少なめ」なせいで、或る種の「障害」を被っているだけなのではないのか、ということ。


別の面白かった症例は、「思い込み」で「食べ物が敵」になっている若い女たちの話で、これの治療は、京極堂の「憑物落し」。

2020年5月16日土曜日

『浦安鉄筋家族』の第六話を見た。「次週の予告」はあったが、次週からは『勇者ヨシヒコと魔王の城』が放送されるらしい。『浦安』の七話以降がいつになるのかは「テキトーに待って(by 大鉄)」いるしかないらしい。これもまた、コロナの影響。


そう言えば、先週も今週も金鉄じいちゃんが姿を見せなかったが、これは、コロナ感染を恐れたスタッフが、高齢の坂田利夫の出演を見合わせたということなのかもしれない。と、今になって思う。というのは、てっきり、『浦安』はコロナ騒動より前に全て撮影し終えていると思っていたので。



うちのすぐ近所にとんかつのチェーン店「かつや」があり、メニューにカツカレーがある。同じくすぐ近所にカレーのチェーン店「CoCo壱」があり、メニューにカツカレーがある。しかし、カツカレーが食べたくなったら、少し歩いて「札幌弁当工房」まで行く。カレーが違う。



『天然素材NHK』という(おそらく単発ものの)番組を観た。膨大なNHKアーカイブスの中から、特に奇態な番組を掘り出してきて紹介する内容。雰囲気は、ちょっと前に二度ほどやった『新銀河紀行』に似てる。


紹介されたのは、「ヨーガ(ヨガ)講座」「鈴木清順の健康法」「思春期の男子の性に関するの親の討論番組」「中学生と立川談志の座談会」「マラソンランナーのマラソン中の心のつぶやき」「怒髪天の何某の視点論点」「お蔵入りになった霊媒実験」など。以前に他の番組で見たものもかなりあった(ヨガ、鈴木清順、談志、霊媒実験)。


で、これが「天然素材」と題されているのは、つまり、山田孝之あたりが近年やっている『植物に学ぶ生存戦略』シリーズなどの種本・ネタ元にあたる番組だから。逆さに言うと、『植物に学ぶ生存戦略』シリーズなどは、今回紹介された「天然素材」番組の「その感じ」を意図して/目指して作られた「パロディ」番組ということ。


つまり、山田孝之の『植物~』は、山田孝之と林田アナウンサーが醸し出すあのシュールな雰囲気そのものを独立に楽しむだけではなく、実は「あの感じ」全体が、うっかり奇態な番組になってしまいがちな、NHKの教育番組や報道番組を、NHK自身が自虐的に茶化しているという点をもオモシロがる番組になっている、ということ。


ついでに言うと、NHKが林田アナウンサーを首都圏ニュースに「囲い込んだ(全国から隠した)」のは、「フリー」に取られたくなかったからだろう。







2020年5月15日金曜日

「河童の屁(かっぱのへ)」は「木っ端の火(こっぱのひ)」が訛ったもの。


「刮目して待て」の「刮目(かつもく)」は目をこすること。


「金のわらじを履いて探す」の「金」は「きん:gold」ではなく「かね:鉄」。すなわち、「いくら履き続けても簡単には磨り減ることのない鉄のわらじを履いて、根気よく一生懸命探す」という意味で、「黄金でできた高価な草履を履いて」という意味ではない。



『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』のコンセプトの違い。『ウルトラマン』は、それが怪獣であれ、宇宙人の侵略であれ、基本スタンスは「災害」への対応。一方で、『ウルトラセブン』は、侵略行為という「意図」との対決。言い換えるなら、『マン』は「人類vs.自然」、『セブン』は「人類vs.異人類」。



養老孟司がNHKの朝のニュースにリモート出演して、そもそも、人間のDNAの中には、ウィルス由来と思われるDNAがたくさん(3~4割)含まれていることや、手作業をすることで自分の体の調子をはかれること(養老先生の場合は、昆虫の標本作りなど)や、(パンデミックの)問題はウィルスではなくウィルスが取りつく人、という話をした。流石によくわかってる。


今回のコロナ騒動は、社会が大人になるいい機会だとも述べた。昔は、「人生とはなんだ?」というようなことは、(仕事に忙しい)大人ではなく、暇な学生が考えることだと言われたが、今は(コロナ騒動で外出自粛状態にある今は)、みんなが「暇な学生」になったのだから、これを機会に、「人生とはなんだ?」的なことをじっくり考えてみるのも悪くない、という話。



キウィはやっぱりGreenの方が「キウィならでは」感がある。Goldのキウィの風味は、他の果物にも似たものがある気がする。それがどんな果物かは今思いつかないけど。



jet lagは「時差ボケ」のこと。直訳すると「ジェット機によるズレ=飛行機疲れ」。アメリカ全土を飛行機で移動しながら試合をするアメリカの大リーガーたちが悩まされたことで、この言葉が一般的になった。と『ボキャブライダー on TV』で言っていた。



去年はそうでもなかったが、今年は花粉症の症状が出てる。とは言え、コロナ騒動であまりクリニックなどには行きたくはない。長くても1ヶ月ほどなので、まあ、今年はこのままなんとなくごまかしてしまおう。歯の治療も1ヶ月先に延ばしたし(5/14→6/18)。