2020年5月19日火曜日

志村けんの死は、直後にやってくる、キャバクラ系産業の「崩壊/不可逆的変質」の象徴のように思える。



味噌汁のことを「おみおつけ」と言うが、漢字で書くと「御御御付け」とほとんど冗談のような字面。



世界一の新型コロナ「被災地」であるニューヨーク市だが、upper classと呼ばれる連中が住んでいる地区は、騒動以来、人口が4割も減っているらしい。みんな、フロリダだのの別荘地や別宅に「避難」したというハナシ。市内に残って、コロナに怯えたりヤラレたりしている多くはビンボー人。と、今日、キャベルさんが、加藤の番組で言ってた。


そう言えば、ブラジルでは大統領が「新型コロナにはどうせみんな感染するしかないんだから経済活動を続けるべき」という方針を曲げないらしい。おかげで、ファベーラ(貧民街)で感染者が増えまくっているとも。現時点で感染者数世界第3位(アメリカ、ロシア、ブラジル)。ブラジルが今後どういう経過をたどるか、興味深く観察したい。



グリーンのキウィとゴールドのキウィが健康のためにいろいろ無理な活動して、最終的にゴールドのキウィがサウナで目を回すCMが気に入ってる。



「自分」というのは世界の中に自分自身を発見することである。と書いても少しもピンとこないだろうが、或る生物主体が、世界という環境の中で生きていく時、最初、世界には世界しかない。自分がいないということ。ちょうど、テレビや映画の映像を見ている時に、それらを撮影しているカメラの存在を、視聴者が無視しているように、生物は、進化の或る時点まで、「世界」は認識しても「自分」は認識していない。その実在が[当たり前すぎて]=[絶対の前提すぎて]、気づく必要すらないからだ。


しかし、事前の模擬実験によって世界を体験しておくことは、生き残りに大変有利であり、この能力・技術に長けている個体は、そうでない個体よりも生き残りやすい。このとき「事前の模擬実験による世界体験」に必要なのは、その世界の「主人公」である自分である。この世界でこう振る舞った時、自分という存在は、どういう利益を得て、どういう不利益を被るのかを「客観的に観察」するためには、模擬実験の中にどうしても自分自身を登場させなければならない。


模擬実験の中の自分は、他者からの類推から生まれたのかもしれない。猿は仲間の猿を見て、自分もまた、他の猿からあのように見えている「はず」というわけだ。