2020年5月10日日曜日

次の(というのはつまり明日の)月曜夜9時から、『鍵のかかった部屋』の再放送が特別編というカタチで始まるらしい(これもコロナ禍の良い副作用の一つ)。一応「全エピソード」と銘打ってるけど、例の新井浩文(風俗業の女に暴力を振るって有罪になった)が犯人役で出演している第五話(傾いた家とテニスボールとトリックの回)は欠番になっている。だから「特別編」なのかもしれない。

しかし、映像作品に出演している俳優なり女優なりが、現実社会で事件を起こしたり、有罪になったからと言って、作品そのものの放送や上映や販売を「遠慮/自粛」するという、薄っぺらの偽善からは、いい加減卒業すればいいのに。

それで思い出したが、志村けんが死んで、YouTubeで公式に『だいじょうぶだあ』が観られるようになったようだが(観てないけど)、なんと、田代まさし(薬物使用でなんども逮捕)の出演場面もそのまま観られるらしい(そもそもカットのしようがない)。これなんかも、田代まさしが出てるせいで、『だいじょうぶだあ』はDVDも販売できず、再放送もされず、という状況がずいぶん長く続いたのが、志村が死んで、世間的か事務所的に「もう大丈夫/いいだろう」ということになったのか、それとも、死んだ志村本人が、田代まさしの映像を出すのを許さなかったのが、当人が死んだ「おかげ」で出せるようになったのか、そういうところは全然知らないし、また無理に知りたいとも思わないけど、結局、世間的な禁忌と言ってもその程度のもの。

所詮はただの虚構作品で、そこに出演している人間の実生活なんか、作品を楽しむ側からしたらどうでもいいこと。演者が、生身の人間でも、CGでも、セル画の上の塗り絵でも、とにかく、虚構作品として楽しめるものなら、観客は気にしないし、何もモンダイにしない。それが、観客としての、健全なアリヨウだ。

逆に、作品を観ながら、この俳優は現実世界でアンナことをしたとか、どんな政治信条を持っているとか、信仰があるとかないとか、学歴がどうとか、ナニジンだとか、そういうことが気になるようなやつは、作品を楽しんでいるのではなく、そこに出ている俳優という個人を楽しんでいるわけで、言ってみれば、自分の子供が出ている学芸会の劇や、親戚の子の初舞台を見ているオジさんと全く同じ。そういう人間にとっては、出演している個人そのものが大事なのであって、作品は添え物にすぎない。