2020年5月22日 金曜日/晴時々曇/やや肌寒い
コロナウィルスの「コロナ」はラテン語で「王冠」という意味らしい。その形が王冠に似ているから。ということは、コロナビールのコロナも王冠? 太陽の火柱(子供が太陽を描いた時に円を取り囲むように付け足すギザギザ)もコロナというはずだが、あれもやっぱり王冠ということか?
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人間が生命現象と知性現象を混同してしまいがちなのは、生命現象を伴わない知性現象に出会ったことがないから。人間が出会ってきた知性現象は、悉く生命現象由来のもの。だから、人間は、知性現象とはすなわち生命現象であると信じ込んでいる。
生命現象をむやみに尊ぶ人間だが、本当は知性現象と尊んでいるのだ。ただ、それに気づかない。少し考えてみれば分かることだが、生命現象は個別の生命を尊ばない。生命現象は、個々の生物個体の競合を内部に抱え込むことで、生命現象全体としての安定を実現している。
個々の生物個体である人間も、真の意味では生命を尊びはしない。体内のバクテリアの生き死にには頓着しないし、他の動植物を殺して食べることに何のためらいもない。なぜなら、個々の生物個体の「食った食われた」は、生命現象の「内部」の活動の一側面にすぎないことを、その「内部」の一要素である人間は、生物個体の本性として、初めから受け入れているからだ。生き物は、水を飲むように他の生き物を食べる。「水と他の生き物は違う」と言い出すのは、生命現象ではなく知性現象である。
菜食主義者の「植物は食べても動物は食べない」という時、彼らが「尊重」したり「気にしたり」しているのは、生命ではなく知性である。もしも、生命を尊重しているのなら、植物だって食べることはできない。菜食主義は、知性現象としての人間が、動物を知性現象として見る時に生まれる。その時、植物は動物ほどには知性現象としては映らない。植物を、尊重するに足る(食べるために「殺す」ことがためらわれるほどの)知性現象として見るのは、地殻の運動や、星々の運行をそうした知性現象として見るよりは容易だが、動物をそのように認識するほどには、簡単ではない。
これは、逆に「こちら側」に引き寄せて考えると分かりやすい。牛や豚を平気で食べる人間も、人肉は(たとえ法律で許可されていたとしても)食べることは難しい。人間は、牛や豚よりも人間の方が圧倒的に知性現象として「尊い」と感じているからだ。