全ての時計は、秒針が48秒を指して止まる。(タモリ)
テレビで嘘をつくのが最高だよ。(タモリ)
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『オリジン』の物語の独特の「安っぽさ/通俗感」は、主要な登場人物同士に悉く面識があったり、物語上の「重要」な出来事に当事者だったり、間近の目撃者だったりしているところ。その「態とらしさ」と「読者への阿り」。
例えば、ミノフスキー博士の亡命を月面で阻止したのが、ラル、シャア、三連星だったり(連邦の初の実戦モビルスーツであるガンキャノン隊をボコボコにしたのもこの連中になっている)、南米で、ホワイトベースの乗組員が生身の三連星と「遭遇」したり、セイラが大戦末期のア・バオア・クーで、ダイクン派のジオン兵の旗頭になったり、ララアを失ったシャアがギレンと直接面会して嫌味を言われたり(尾羽打ち枯らして云々)、あるいは、レビルの脱出をシャアが「見逃したり/手を貸したり」。これらを「読者サービス」として描き出しているとしたら、それは作り手/表現者の底の浅さを示していることになる。
「歴史」の「事実」は、重要な役割を果たした人物たちが互いに一面識もないまま、結果として(彼ら自身も気づかない状態で)一つの大きな流れを作り出している。つまりそれが「(人のではない)歴史の意思である。
『オリジン』のように、歴史上の「有名人」たちを「後出しジャンケン」の要領で、互いに直接関わりがあったかのように、あるいは「実はあの出来事の裏で大きな役割を演じていた」風に描いてしまうと、「歴史の意思」ではなく、「作者の意図」が鼻につくようになってしまう。一言で言えば「あざとく」なる。
これは『ユニコーン』にも言えること。
歴史上の「有名人」を活躍させたいという欲求が第一義になって物語を展開すると、逆に、有名人たちが「物語の操り人形」になってしまうことを、凡庸な表現者たちは気づけないのだ。
或る才能や或る立場の人間が、その才能や立場を全く生かせず、あるいは生かさず(自ら投げ捨てて)、歴史の担い手となることを妨げられたり、自分から遠ざかったりすることは普通にある。普通どころか、歴史のほとんど全てはそういうものだ。歴史は結果論であり、結果から遡って、歴史上の「有名人」が生まれる。[歴史上の「有名人」がいたからこそ歴史が動いた]のではない。
『オリジン』の物語展開には、「明治維新は龍馬が成し遂げた」的な、講談的嗜好と同類のモノの強く感じる。