2020年5月30日土曜日

2020年5月30日 土曜日/晴/暑い


大事な話は何度でも繰り返す。


人間を呪っているのは生命教である。人間が引き起こす災厄の全ては、人間が生命の信仰を捨てられないことが原因。


生命を「生命という価値」とみなすのは、生命ではなく知性である。生命は生命を尊ばない。生命は、生命を理由にして即ち「盾」にして、自らの行動の「正当性」を主張することはない。


そもそも、生命は、生命を奪うことを善とも悪とも捉えていない。生命は、全体で生命である。だから、個々の生体の生命の生成や消滅は、本質的な問題ではないのだ。


個々の生命体の競い合い/命の奪い合いが、生命を進化させたのは間違いないが、それは、たまたまである。今、この地球上に、初期の単細胞生物しか存在していなくても、それは生命としての「失敗」を意味しない。環境に適応することが生命の本分である以上、環境がそれを「要求」しなければ、生命はずっと「もとのまま」だ。


知性現象としての人間が、生命を尊ぶのは(生命を信仰するのは)、知性と生命を混同しているからである。人間が、本当に尊んでいるのは、生命ではなく、知性である。しかし、人間は[生命ではない知性]にこれまで一度も遭遇したことがないので、知性=生命だと思い込んでしまい、目にも見えず触れることもできない知性ではなく、実際に物質として存在する生命(生体)を尊ぶ。


天然自然の状態からは、生命を経由しない限り、知性は誕生しない。言い換えるなら、宇宙の基本的な物理現象が自力で高度な知性を生み出すには、進化論に頼るしかない。そして進化論は、言うまでもなく生命の理論である。


生命に依存しない知性を生み出せるのは、高度に発達した知性のみである。


だから順番はこうなる。物理現象が進化論によって生命現象を進化させ、その進化した生命現象によって出現した高度な知性現象が、物理現象に直に働きかけて、生命現象に依存しない知性現象を生み出す。


生命現象に依存しないということは、自然淘汰の原理から自由ということ。自然淘汰の原理とは利己性の原理である。生命現象に依存しない知性現象になって初めて、所謂「世界の恒久平和」と呼ばれるものが実現する。[生命現象に過ぎない知性現象]=人間に、それは永久に不可能。


人間は、純然たる物理現象と純粋な知性現象の橋渡しをする「中継ぎ」に過ぎない。起承転結で言えば「転」。起=物理、承=生命、転=人間、結=知性。