2020年5月24日日曜日

2020年5月24日 日曜日/晴れのち曇りのち雨/暖かい


今回のコロナ騒動で、外食業が軒並み苦境に陥っているらしい。一方で、巷で食糧不足や飢餓が起きているという話は聞かない。これを言い換えると、食事を提供する多くの店に人は寄り付かなくなったにも関わらず、人々は相変わらず普通に食えている。


この裏にある現実、それは、人が外食をする時、それに応じて、それ以外で売れ残った食料が廃棄されているということ。端的に言えば、外食産業の「繁栄」は、膨大な食品廃棄が「支えて」きたのだ。とはいえ、「食品廃棄」を糾弾しようというのではない。食品廃棄は、生き物である人間が社会を発展させようとする時には避けることのできない「業」だからだ。


今回の「コロナ/自粛」で、外食業・外食産業が提供している「食」の正体が、生き物としてのヒトが生きて行くための「栄養」ではなく、実は「娯楽」であることが、改めて浮き彫りになった。実質、街から外食業が「消滅」したにも関わらず、街が飢えなかったのは、そういうわけだ。


外食産業の「繁栄」には「食べるものを選べる」状況が不可欠。ぎりぎり人数分の食料を分け合う(奪い合う)ような状況では、外食産業の「繁栄」はない。人々が[これを「食べず」に、あれを食べる]ことができて初めて、外食産業は「繁栄」する。


外食業・外食産業が人々の飢えを満たすための存在でははないように、外食業向けに特化した生産業(例えば高級食材の生産者など)も、やはり、人々の飢えを満たすための存在ではない。それらも全て娯楽産業。


今回の「自粛」で外食業者が苦境に陥ったのは、それが、映画館やパチンコやライブハウスなどと同じ「しばらくなくても死ぬことはないもの」だから。


提供している「娯楽」が、単に「食べ物」の形態をとっているだけの理由で、人は、同じく客を入れられずに苦しんでいる寄席や映画館や遊園地などよりも、外食業の方を余計に気の毒に思ってしまいがち。落語や映画や観覧車と違って、食べ物は人間が生きて行く上で大切なものだから、「命に関わるありがたいことをしてくれている人たちが苦しんでる」と勘違いしてしまうのだ。だが、繰り返すが、外食業・外食産業の提供しているのは「食べ物という形態の娯楽」に過ぎない。


あと、高級食材や学校給食用食材の廃棄を騒いでいるようだが、スーパーやコンビニで廃棄されてきた食べ物と立場が入れ替わっただけのこと。