2020年8月15日 土曜日/晴。暑いは暑いが、まあ、大丈夫な暑さ。
第二次大戦末期、原爆開発に取り組んだ京都大学の研究者の一人を主人公(演じたのは柳楽優弥)にしたNHKドラマ『太陽の子』を観た。ちなみに、放送前に自殺した俳優が、主人公の弟役で出演していることで、妙なワダカマリもできてしまったドラマ。
原爆開発の「結末」がどうなるのかは日本人なら誰でも知っているので、一種の大河ドラマ。ただし、どの程度まで開発が「進んで」いたかは、自分も含めて大抵の人は知らない。
で、結局、広島に原爆が落とされた時点で、京都大学の研究者たちがやっていたことは、ウランの同位体の分離。それすら、成功の遥か手前の段階。
ウランをどこから手に入れるのだろうと思ったら、ドラマの中では、地元の窯元(演じていたのはイッセー尾形)からだった。すなわち、焼き物を彩色する「絵の具」として使われていたウランを回してもらっていた。
一番印象に残ったのは、広島と長崎に原爆が落ちた後、「次は京都だと噂されている」ので、母親と幼馴染には京都を離れるように言い、自分は比叡山に登って、原子爆弾が空中で炸裂する様子を観察すると、主人公が言う場面での、主人公と母親(田中裕子)との価値観の「隔絶と対立」。と言っても、激しくやり合うわけではない。「京都が原爆で焼き尽くされる様を観てみたい」と言っているに等しい息子に対して、母親は、怒りと悲しみと恐れを込めて「科学者とはそんなに偉いのか」と言う。それに対して、主人公は、自分が科学者になるのを許してくれたことを母親に感謝するだけだ。母親は、息子の行動を止めはしないが、自分は京都を離れないと言い、主人公は母親の作ってくれた「握り飯」を持って、実際に比叡山を登るところでドラマは終わる。
ここからはドラマとは直接関係ない、「科学者はそんなに偉いのか?」問題について。とはいえ、今までにも何度も言ってきたことだ。
結論を言うと、「科学者はそんなに偉い」のだ。なぜなら、自分の子孫たちが、地球や太陽や宇宙と運命を共にして死に絶えることを回避するためには、科学を「究める」しかないからだ。殆ど全ての人間にとって、自分の子や孫の世代で世界が終わることは悪夢以外のナニモノでもないだろう。ならば、万年後億年後の「孫」の世代で世界が終わることも「そんな先のことまで」で済ますべきではない。希望は、神ではなく、科学である。