2020年12月31日 木曜日/晴れ
Philip K. Dick’s Electric Dreamsのエピソード2「自動工場」を観た。
(ネタバレあり)
主人公(ロボットのエミリー)が「自動工場」を破壊しなければならない「公明正大」な理由が思いつかない。原理主義者が、自分たちの理想とは違う生き方をしている社会の破壊を仕掛けているようにしか見えない。実際、主人公たちは、工場が生産して送りつけてくるものを自分たちは消費したくないというただそれだけの理由で、世界中にいる彼ら以外のロボット(人間だと思いこんでいる)の生活基盤を破壊したことになる。ちょうどそれは、添加物の入ったものを食べたくない連中が、世界中の[オーガニックでない食料]の工場を破壊して、世界中の貧乏人の飢餓の危機に追い込むようなものだ。
主人公の彼氏は、自分たちがロボットであることを知っている様子。何度も主人公に対して「もう話したのか?」と尋ねるのはそのことだろう。
読んではいないが、おそらく原作のモチーフは、いまや世界中の人間が[大量生産される工場製品の消費者]に「成り下がっている」という社会風刺だろう。
このテレビドラマの流れはこう。
1)天才科学者エミリーが「自動工場(Autofac)」を完成させる。
2)核戦争で人類が滅びる
3)人類に生産物を供給して奉仕することがレゾンデートル(存在意義)の「自動工場」は、自分の生産物を消費してくれる「消費者(自分を人間だと思いこんでいるロボット)」自体の生産供給を始める。
4)人工の「消費者」の中に、「自動工場」の生産物を消費しようとしない、「欠陥品(統計学的に発生するエラーのせい)」が現れる。
5)「欠陥品の消費者」すなわち主人公たちが「自動工場」を破壊する。
物語の中で、主人公のエミリー(ロボット)は、「本物」が紛れ込んだと言う。つまり、「人間のようにふるまう」人工の心ではなく、本物の人間、もっと言えば、たとえばエミリーの場合、モデルになった女性科学者自身が、ロボットの「体内」に再現もしくは復活したという意味合いのことを言う。それを一言で言えば、かつて生きていたエミリー博士が蘇ったということ。
だからこれは、核戦争を生き残った「自動工場」のおかげで、絶滅したはずの人間たちが(体は機械ではあるが)ついに蘇った、バンザーイ、という話。あとは、「人間ではない」知性を全て排除・破壊して、「人間」が世界を支配できればこんなめでたいことはない、という話。
ここでもまた「生命教」の呪縛が姿を表している。すなわち、[知性体は何よりもまず生命体でなければならないし、生命体の「教義」や「流儀」に従う知性体だけが「本物」の知性体である]という狂信が、実は、知性の無限の可能性の邪魔立てしているのだが、その「邪魔立て」が「善」や「希望」として描かれてしまっているのだ。まあ、物語が「生命教」に呪われてしまうのは、現時点での人類は、物語の製作者も、そして多くの視聴者も皆「生命教」の「狂信者」なのだから、やむを得ない。
古今東西あらゆる宗教物語(教典、聖典等)は、「邪教」を退け、異教徒を「改宗」させることを奨励し喜ぶものである。現在語られる思想・哲学・物語の背後にはほぼ必ず、生命教に対する狂信が隠れている。狂信が言わせることは、所詮全てただの戯言である。