2020年12月26日 土曜日/大雪
NHKスペシャルの『患者が”命を終えたい”と言ったとき』を観た。「鎮静」処置をやるやらないで登場した医者の振る舞いについては、特に違和感は感じなかったが、ALS患者に呼吸器をつけるつけないで登場した医者の振る舞いには違和感しか感じなかった。違和感というか、まあ、恐怖だよね。アレを見て、医者がどうやって、人工呼吸器を望んでないALS患者に人工呼吸器をつけさせるのか、その「手口・やり口」がよく分かった。
放送されたものを見る限り、件の医者は、担当しているそのALS患者に人工呼吸器をつけたくてしかたがない。医者は自分からは、人工呼吸器をつけるべきだとは絶対言わないし言えないが、その振る舞いから、どうにかして患者の気を変えて、人工呼吸器をつけさせたいと思っている本心は丸わかり。何度も何度も意思確認をしたり、実際に呼吸器をつけたALS患者と話をさせようとしたり。
これは、「生命教」の狂信者の典型的な振る舞い(@一応言っておくと、「生命教」とは生命を存在宇宙の最上位に置く信仰で、所謂「無神論者」でも「生命教」信者であることから免れている者は少ない。なぜならこれは、人間という生命現象依存型知性現象の「持病」あるいは「呪い」のようなものだから)。
件の医者が、治療法もないALS患者に人工呼吸器を「つけたがる」のは、「医の倫理」や所属している医療機関の「方針」といった「上っ面の理由」以前に、その医者が「生命教」を「狂信」しているからだ。生命教狂信者にとっての生命は、一神教にとっての神と同じなので、「生きること」が「絶対の善」。だから、生きられる手段・選択がまだ存在するのに、それを放棄してむざむざ死ぬのは「異教徒の無知ゆえの愚かな振る舞い」でしかない。ちょうど、キリストを信じれば天国に行けると信じているキリスト教徒が、異教徒や無神論者の「キリストを信じない」という選択を、「無知ゆえの愚かな振る舞い」と見なすのと全く同じ感覚。
だから、件の医者は、入会を勧めて熱心に喋り続ける新興宗教の信者よろしく、「全くの善意」で、患者には人工呼吸器をつけてもらいたいと思っている。垂れ流しで、まぶた一つ動かせなくなっても、そうした全ての苦痛を帳消しにするだけの価値や意味が、「生命=生きている状態」にはある、と信じて疑わないからだ。
しかしそれは幻想である。知性としての人間にとって、生きている自分自身の身体は、地球や太陽と変わらないからだ。それらはすべて「媒体= medium」に過ぎない(と、この話は前にも書いたのでこれ以上は深入りしない)。
人工呼吸器をつけて「生き続け」させてたくて仕方がない件の医者は、あの手この手を使って、患者自身から、人工呼吸器装着希望の言質を取ろうとするわけだが、最後に、緊急入院(だっけ?)した患者と二人きりになった「チャンス」を「利用」して、患者の妻の「夫が人工呼吸器の装着を望むなら、私は夫の意思に従います」的な発言を持ち出し、ついに、患者自身から、人工呼吸器装着の承諾を取る。これなんか、テレビやネットや週刊誌が、芸能人や政治家の発言の一部を全体の文脈から抜き出して、その発言に別の印象や意味を与えるというやり口そのまま。
まあ、おそらく、生命教信者である件の医者には、患者の妻の発言は、「本当は妻も夫(患者)に人工呼吸器をつけてもらいたいと思っているのだ」というふうに聞こえたのだろうが、生命教に毒されていなければ、妻は単に、人工呼吸器に対する夫の判断はどんなものであろうと受け入れる、と言ってるだけ。
しかし、あの切羽詰まった入院のタイミングで、しかも周りに家族がいない(だから妻に真意を確かめられない)状態で、いかにも「本当はあなたの奥さんも、あなたに人工呼吸器をつけてもらいたいと思ってる」というニュアンスを込めて「誘導」されれば、患者も「諦める」しかない。
そう、患者は諦めたのだ。なにを? 患者は、この医者が本心では人工呼吸器をつけたくてしょうがないのは、随分前からはっきりと分かっていただろうが、自分の妻までがそれを望んでいたのなら、もうしょうがない、と「諦めた」のだ。つまり、安らかに死ぬことを諦め、猿ぐつわをされた上から、頭からすっぽりストッキングを被せられ、体は拘束衣に縛られた状態で床に転がされて生きるような数年間を受け入れることにしたのだ。
自分を担当した医者が生命教の狂信者の場合(しかもそれは高い確率で起こる。なにしろ生命教は人間の「持病」である)、こんな悲惨な・不本意な・医者のおもちゃにされる「晩年」を送る羽目になってしまう。
ついでに言うなら、終末医療の医者の葛藤のほとんど全ては、生命教の「教義」あるいは生命教に対する「信仰」と、知性現象としての人間の本質との対立。