2021年3月3日水曜日

現の虚 2014-9-7 夜の10時半に集金が来る

ためしに始めた大昔の古いコンピュータゲームに夢中になっているとインターホンが鳴った。時計を見た。ちょうど10時半。夜の10時半だ。俺は聞こえなかったことにした。すると訪問者はドアを小さくノックして、小声で俺の名を呼んだ。新聞屋だ。集金だろう。

俺は現実世界を無視して、ゲームの世界に戻った。

ゲームの主人公である「俺」は、コンピュータの粗いドット絵の世界にいた。主人公「俺」自身も積み木のような粗いドット絵だ。大昔の古いゲームだからビジュアル的にはこんなもので、またそれが味わい深さでもある。

「俺」は今、暗い塔のような場所にいて、下層に向かって階段を下り続けている。怪物と遭遇して闘ったりはしない。代わりにたくさんの変人、怪人と出会う。彼らは襲って来ることはない。不思議な振る舞いや、謎のコトバや、使い道の分からないアイテムを提示するだけだ。それらを、プレイヤーである俺が一旦現実世界に引き受けて、実際に知識のある人に訊いたり、自分で考えたり、図書館で調べたりして答えを見つける。答えは「意味」と云い換えてもいい。見つけた「意味」は、キーボードを使って、ゲーム内の主人公「俺」の「心」に打ち込む。すると、ゲームの世界では主人公「俺」が「そういう意味だと思った」というコトになって、ゲームの物語が進展する。

という、あんまりよく分からないゲームシステム。

なぜあんまりよく分からないのかと云うと、プレイヤーの俺が見つけた「意味」、つまりゲームの主人公の「俺」が「考えた意味」が何であっても、とにかく、それがナンラカの意味をなしていれば(意味をなさない文字の羅列でなければ)、「物語」は進展するからだ。要するに、適当に思いついたデタラメな「意味」を「俺」の「心」に与えても、それは有効な「回答」としてゲームを先に進める鍵になる。

二つの不穏。一つは「意味」がナンデモいいなら、そもそも課題をクリアして行くことが基本原理であるゲームというものそれ自体に背いているのではないかということ。もう一つは、求められる「意味」には実は「正解」が存在していて、もし全てに「正解」すれば「正しい」物語展開や結末に到達できるのではないかという疑念や希望が常にあるのに、そうした「正解」が本当に存在するのかどうかを確かめようがないのはなぜか、ということ。

またインターホンが鳴った。時計を見ると11時を過ぎている。
俺は今度は返事をした。