2021年3月30日 火曜日/晴れ
§ºどこの国にも、所謂「言葉狩り」に熱心な輩がいるだろう。そういう「言葉狩り」に熱心な輩がいるのは大抵が「大国」。で、そういう「大国」は、どこもだいたい「残忍な侵略者」だった歴史を持つ。
ところで、「言葉狩り」の際に持ち出される「大義名分」は「その言葉を聞いて、不快に思う人や、ツラい思いをする人がいるから」だ。
となると、困ったことになる。例えば、日本語も、英語も、フランス語も、ドイツ語も、スペイン語も、ポルトガル語も、中国語も、ロシア語も、その言語そのものを見聞きしただけで不快に思ったりツラい思いをしたりする人たちが、かつては大勢いたし、もしかしたら、今もいるかもしれないからだ。つまり、嘗て、今挙げた言語を操る侵略者たちに、生活も人生も踏みにじられた被侵略国の人々がいて、彼らはそれらの言葉が話されているのを聞いただけでもヘドが出ただろうし、その文字を読んだだけで気が狂いそうになったことだろうし、それは、今も、変わらないかもしれないからだ。そう、ここには、特定の単語のレベル(規模)の話ではない「言葉狩り」を実行する「大義名分」がある。
第二次大戦中に生きた中国人にとっては、日本語そのものが「使って欲しくない言葉」だったろうし、同じく第二次大戦中に生きたユダヤ人にとってはドイツ語まるごとが「耳にするのもおぞましい言葉」だったはずだ。その不快さは、今の放送局が言う「放送禁止用語」の不快さとは比べもにならないだろう。英語をはじめとする、他の言語についても同じことが言える。それをそのまま放置して、やれ「めくら」だの「片手落ち」だの「ドカタ」だのでピャーピャー言って、なにか世の中を少し良くしたかのような顔をして澄ましている。それが「言葉狩り」の正体。だから、どこの国の「言葉狩り」も、実は、御都合主義のただの八百長。偽善の極致。
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§º世界にはほんの僅かばかりの「ホンモノ」と、「ホンモノ」によく似た大勢の「巨匠」が存在する。「巨匠」とは単なる「職人の頂点」。だから、人間以外にも「巨匠」は居る。たとえば、巨大なアリ塚を建てるシロアリはまぎれもない「巨匠」で、例えば、人間界のアニメの「巨匠」や文学の「巨匠」と、本当の意味で「同じ存在」。しかし、「ホンモノ」は人間界にしかいない。なぜなら、「生命教」を抜け出して初めて「ホンモノ」になれるから。人間以外の地球生物は、無論、「生命教」の「教義」にがんじがらめ。そりゃ、生命現象なんだから仕方がない。地球上では人間だけが「生命教」を振り払うことが(原理的には)可能。しかし、それができる人間は少ない。なにしろ、人間もまた、その土台は(あるいは媒体は)生命現象だから。
なぜまたこんなことを書いているのか。原作版の『ナウシカ』をまた読み終えて(4周目かな)、「ああ、やっぱりこれって、生命教信者による生命教信者のためのお話だなあ(ツマンネエ)」と改めて思ったから。原作版『ナウシカ』に限らず、宮崎駿の作るものは全て、生命教の内側の話。だから、宮崎駿は「巨匠」。とはいえ、生命教の外側に一度立ってしまうと、もうお話なんて作る「必要」は無くなるから、転職か引退を考えなくちゃならなくなるけどね。