2021年3月13日 土曜日/晴れ暖かい
安彦良和初監督劇場用長編アニメ『クラッシャー・ジョウ』を「サンライズ・チャンネル」で視聴した。作画は素晴らしい。動画も素晴らしい。SF設定も見事。しかし、キャラクターの演出、あるいは人物造形、セリフが、ことごとく陳腐。凡庸。紋切り型。薄っぺら。全体の印象は「観客をナメくさってる」に尽きる。忍耐の2時間強。
展開に関しては原作自体が陳腐なのかもしれないが、キャラクター演出(人物造形、セリフ)に関して完全に監督の安彦さんの責任だろう? とにかく、絶えずオチャラケた描写や振る舞いが入るので、全編を通じて緊張感がない(基本、この物語は、殺し合いだし、実際、たえず人が死傷するのに)。人が死ぬ(人が殺し会う)ということを描きながら、たえず、「冗談ですから、アニメですから、ムキにならないで」と言い訳し続けてるような不誠実さを感じて、ずっと不快だった。のちの『アリオン』でも『イエス』でも、あるいは『ガンダム・ジ・オリジン』でもずっと同じことをやってる気がする。だから、そもそも、たえず茶化しながらでしか、つまり、腰が引けた状態でしか「人の業」を描けないのだと思う。
もっと言ってしまえば、「人の業」「人の世の理不尽さ」を描きたくてやった人物造形や物語の展開が、自身の力量のなさから(事実、安彦さんにこの分野の力量がないのは幾多の作品を見れば分かる)薄っぺらくて嘘っぽいものにしかなっていないのを当人も気づいていて、だから一種の「照れ隠し」で、ほとんどのキャラクターに「不必要な」というか物語世界の構築にとっては「邪魔にしかならない」オチャラケた振る舞いをやらせてしまうのだ。容姿に自信のない女子が頑張って着飾ってパーティに出席し、しばらく澄まして美人キャラをやっているんだけど、客観的に自分を見て「やっぱり私なんて」と思い知らされ、急いで三枚目キャラに戻る、みたいなことを、ずっと繰り返しているのに付き合わされている気分。
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灯油購入ののち、猫散歩。
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久保みねヒャダのこじらせライブ#10のライブ配信を楽しく視聴した。開始時間はいつもよりも遅い16時。ゲストはハライチの岩井勇気(勇気って、braveryの漢字そのままなのね、今気づいた)。小倉智昭の「70歳のバーには行く気がしない」的発言や、「今は仕事が忙しいから付き合えない」的理由で若い女タレントを振った男に対する、久保さんの腹の立て具合を見ていると、やっぱりこのヒト(久保さん)が「こじらせ」の家元だとわかる。「70歳のバー」云々も「今は仕事が忙しいから」云々も、別にどうと言うことはない「控えめ表現」にすぎない。これが「従業員70歳平均のバーなんか、成立するわけねえだろバカやろ!」とか「仕事忙しいのに、せっかくの休みをお前みたいな女のために浪費したくないから付き合えない」だのと言ったのなら、まあ、キレてもいい。しかしそうじゃない。久保さんは、こじらせてる。久保さんが、彼らの発言に対して「不自然に」アタマにくる理由は簡単で、「一生懸命やってるんだから、構ってくれ(構ってやれ)」ということ。例えば、家事で忙しく働いている母親に激しく付きまとっている幼児が母親に構われなかった時に見せる激しい怒りと同じ。別に、久保さんを非難しているわけではない。
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その、久保みねヒャダライブのおしまいで一瞬話題になったハライチがゲストの回の『金スマ』が気になったので、ライブ配信が終わってすぐに、今度はTVerでその回の『金スマ』を観た(便利な世の中)。これもまた面白かった。
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東日本大震災の大津波で生き残れた人間と死んでしまった人間の行動の違いを検証したNHKスペシャルをNHK+で観た(ほんともう、テレビ要らんなあ)。わかったのは、[ほとんどの人間は、たとえそれが大津波に対する避難でも、自分一人では「行動を起こす」ことができない。しかし、誰か一人でも逃げ出せば、ちょうど、鳥の集団から一羽が飛び立てば、他の鳥も全部飛び立てるように、自分一人では「動くことができなかった」人たちも、最初に逃げ出した一人に「つられて」行動を起こす(避難を始める)ことができる]ということ。だから、対策としては、あらかじめ、率先して避難を始める役割を担う人間を決めておくのがいい、という結論。
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晩飯は、近所のジンギスカン屋で買って来たマトンとラムで、ジンギスカンにした。赤ワインも。旨い。