2021年3月26日金曜日

『植物に学ぶ生存戦略5 話す人:山田孝之』を面白く観た

2021年3月26日 金曜日/晴れ


『植物に学ぶ生存戦略5 話す人:山田孝之』を面白く観た。で、番組の最後に流れた曲に凄く聞き覚えがあったので、気になって、Googleに聴かせて検索させた。出てきたのは「Intermezzo Sinfonico」すなわち、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ 」の「間奏曲」。タイトルは全然知らない。きっとテレビドラマか、映画の中で流れていたのだ、と思い、もう少し検索を進めて判明した。『God Father part3』の最後の[マイケル(アル・パチーノ)の「無音の慟哭」の場面]で流れる曲だった! あ〜、すっとした。



§ºまず、ユダヤ教という凡庸な宗教があり、その変革者としてのイエスをきっかけにキリスト教が生まれ、それとは別のもう一人の変革者ムハンマドをきっかけにイスラム教が生まれた。同様に、まず、大乗仏教(=Gautama教の歩く屍)という凡庸な宗教があり、変革者としての親鸞だの日蓮だのをきっかけに新手の仏教宗派が生まれた。それらは皆、人気を博して大いに流行り、だから、今も存在している。


「流行る」ために最も必要な条件は何だろう? それは適度な「凡庸さ」である。では、「凡庸さ」とは何だろう? それは、生命である人間が、生命であることのみを拠り所にして「分かる/理解できる」ということ。まあ、平たく言えば、或る考え方や理屈や物語が、上から下まで「生き物あるある」で出来上がっているということ。白痴だろうと何だろうと、なによりもまず、存在している時点で生き物であることはクリアしている人間は、「生き物あるある」だけはピンと来るし、腑に落ちるし、納得できるし、理解できるし、共感できる。だから、「生き物あるある」で出来上がったものは、大勢の共感を得て、大いに、そして長く「流行る」のだ。


何度でも繰り返すが、全ての宗教は生命教である。だから、ユダヤ〜キリスト〜イスラム教も、様々な「なんちゃって仏教」(Gautama教の腐乱死体)も、裸にひん剥けば、全ては「生命教」である。「神」だの「仏」だのと呼んで、恐れたり有難がったりしている信仰の対象の、その力(権威/権力)の源とは、結局のところ「生命を司る能力」である。生命のあり様や行く末に関して(それが現世だろうと「死後の世界」だろうと)、様々な決定権を持っていたり、影響力を行使できたりする存在が、凡庸な人間たちから何千年にも渡って「支持」されてきた「神」だの「仏」だのの正体である。逆に言うと、「神」だの「仏」だのは、単にソレダケの存在である。多くの凡庸な人間たちが愛し崇め特別視する[所謂「生命」]が、人間の寂しさが生み出した「幻」に過ぎないことを見抜いた身にとっては、「神」や「仏」は[ライナスからタオルを奪い取ることも、ライナスにタオルを持たせ続けることもできるキャラクター]程度のものでしかない(何の話だ?)。


脇に逸れた。


全ての宗教は生命教であるわけだから、原理的には、どんな宗教でも、千年紀単位の「流行に乗る」ことはできる。今ある「世界宗教」の価値は「流行に乗れた」という、ただそれだけ。誰でも知っている様に、流行に乗れるかどうかは、運である。巡り合わせが9割である。いや、全てかもしれない。21世紀の「世界宗教」も、その他無数の滅亡した宗教も、正体は皆、ただの「生命教」である。だから、思想的には、どれもガラクタなのだ。人類よ、いい加減、生命教から脱却しろよ。