2020年4月30日木曜日

人間社会を人体に喩えると、芸能人は「歯並び」。脳や心臓や筋肉ではない。


デンタルフロス(糸ようじ)は、鏡を見ながらやると、かえって難しいことに気づいた。以前、鏡を見ながら挑戦して、糸のどっちの端をどっちに向ければいいのかわからなくなって断念したが、今回、あえて鏡を見ずにやってみたら、できた。

しかし 本当にこんなことまでして、歯の隙間を掃除しなければならんのかね。歯並びが悪くて少し重なっている下の犬歯のあたりを、歯医者はやれというので、まあ、やっているが、そもそも、誰が始めたんだろう? アメリカ人あたりが始めて、それが戦後の日本に広がって、でも、実は、世界中でそんなことをやっているのはアメリカ人と日本人だけだとか、そういうことではないのか、などと思いながら、マヌケズラで、歯の隙間に挟んだ糸をピンピンやる。


PayPayで、店をハシゴしながら続けさまに決済しようとすると、「二重払いになるかもしれない」とかいうエラーメッセージが出て鬱陶しい。具体的にいうと、今日、ドラッグストアでPayPay払いした後、300メートルほど離れた弁当屋でまたPayPay払いをしようとしたら、その「二重払いになるかも」警告メッセージが出た。支払い履歴を確認するよう出ていて、その文章がリンクボタンになっていたので、押したら、履歴画面に飛んで、ちゃんと前の店の支払いは済んでいた。で、確認したから、先に進めるのかと思って、「支払い」ボタンを押すと、またさっきと同じ警告メッセージ。なんだ、さっきの「確認」はちゃんとできてなってなかったのかと思って、再度、履歴を確認し、で、「支払い」ボタンを押すと、またしても「警告」! 弁当屋のレジの前でその無限ループを5回ほど繰り返したが、最後に諦めて現金で払った。

支払いを済ませて、くだんの「警告」をよく見たら、「履歴を確認にしたのでこのまま支払いを続ける」という文言の目立たないリンクがあった。つまり、これを押したら、先に進めて支払いができていたということだ。

わかりにく!

まあ、GPS的に同じような場所で、続けさまに支払いをすれば、それは、同じ請求に対して2度支払いをしている可能性があるので、PayPayアプリとして「気を利かせて」くれてるんだろうけど、まあ、二重払いではないことを確認したユーザーが「支払い」に進むための「道」が分かりにくい。大勢が「失敗」しているはず。

2020年4月29日水曜日

【デンディ/ボーリング著『自分の体で実験したい』 巻末年表(その4)】

1933年頃 ●医師のジャック・ポントーが蛇毒の抗毒血清を自分に注射し、免疫ができたかどうかを確かめるために3匹のクロクサリヘビにわざと噛まれる。血清は効果を上げた。(スイス)

1934年 ●ソクラテス・ラゴーダギー博士が、ハンセン病の治療法を研究するために患者の血液を3回注射する。ラゴーダギーの皮膚には、感染によって局部的な知覚麻痺やこぶが生じた。彼はそれを5ヶ月間放置しあと、100回近くの注射と1000個以上の薬を飲むことで自力で病気をほとんど直した。(エジプト)

1939年 ジャック・ホールデンとヘレン・スパーウェイが、水槽の水に浮かんだり、金属製の小部屋に座ったりしながら、高圧ガスを吸う。(イギリス)

1944年 ●医師のクロード・バーロウが、住血吸虫と呼ばれる寄生虫を腕とヘソの皮膚から体内にわざと侵入させる。この寄生虫をエジプトからアメリカに運んで、住血吸虫症の研究をするためである。(アメリカ)

1947年 航空医官のジョン・ポール・スタップが、航空医学の分野で実験を始める。(アメリカ)

1952年 ◆アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスが、バクテリオファージ(細菌に感染するウィルス)を使った実験を行い、遺伝子がDNAでできていることを示してほとんどの生物学者に受け入れられる。(アメリカ)

1954年 ジョン・ポール・スタップが、減速が人体に及ぼす影響を調べるため、ニューメキシコ州の砂漠でロケットスレッドに乗る。走行速度が時速約1017キロという記録を打ち立て、「地上最速の男」となった。(アメリカ)

1956年 ヴェルナー・フォルスマンが、アンドレ・F・クールナン博士およびディキンソン・W・リチャーズ博士と共に、心臓カテーテル開発の功績に対してノーベル生理学賞・医学賞を受賞する。(スウェーデン)

1962年 ◆ジョン・H・グレン・ジュニアがアメリカ最初の飛行士として地球のまわりを回る。当時40歳という年齢は、宇宙旅行を果たした人物としては最年長。グレンは「フレンドシップ7号」に乗った。その10ヶ月前には旧ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、人類初の宇宙旅行を成功させている。(宇宙)

1968年 ●獣医のロバート・ロペスが、ネコについていたダニを自分の耳に3度入れ、飼いネコのダニが人間に住みつくか‥‥

2020年4月28日火曜日

『映像研(アニメ)』→『映像研(ドラマ)』→新型コロナ騒動→『キングダム(アニメ)』中断→『コナン(未来少年)』放送開始。即ち『映像研』からの『コナン』。『映像研』にはナニカある。


今回のコロナ騒動以後、労働者は「感染症に強い」仕事や「感染症対策ができている」仕事を就職先として選ぶようになるだろう。また、自営業者や企業家も、同様の[「感染症耐性」のある仕事]をやろうとするようになるだろう。少なくとも「この仕事はパンデミックが起きた時に大丈夫か?」が職業選択の際の勘案要件になるだろう。それは、自らが感染症に感染する危険がない仕事という意味ではなく、パンデミックが起きた時の「地球規模の経済停止状態」に巻き込まれることがない(少ない)仕事、という意味だ。ともかく、2020年を境に、世の中のシゴトのアリヨウ、ということは、社会そのものが大きく変わる。それも、地球規模で。


映画版の『イデオン』のラストや『ガンダムUC』が「ダメ」なのは、「死人」たちだけで対話している場面が描かれるからだ。初代の『ガンダム』が「大丈夫」なのは、「死人」のララァと言葉を交わしているのが、生きているアムロだから。「死人」たちだけのヤリトリで場面が成立してしまったら、生きている人間の世界の全てがただの「夢」になってしまう。生きるの死ぬの、殺した殺されたと大騒ぎしていることも、何億という人死も、命と引きかえ悲劇的英雄的行動も、全ては「茶番」になってしまう。

死んだあとも、その人間が知性現象としてそのまま存在し続け、しかも生きている時よりも、自由で安らかで聡明になっている様子が、生きている人間の窺い知れないところでの「事実」として描かれてしまえば、生きている人間の[生きるための苦闘]の全ては、子供が予防注射を怖がって泣き喚いているのと変わらない[無知で未熟な空騒ぎ]でしかなくなる。

「日常」として「死後の世界」を描いている作品なら問題にはならない。しかし、厳しい状況としての人の殺し合いが舞台の物語で、作品の最後の最後に、それまでに死んだ登場人物たちが「死人」のまま「事実」として登場し、しかも生きている人間のように考えたり振舞ったりしてしまえば、「人が殺しあう状況」そのものが、物語の中で更に「虚構」となり、つまりは、長々と語られた物語の全てが、最後の最後に「劇中劇」化してしまい、作品世界は観客の目前で霧散する。

2020年4月27日月曜日

おそらく初めて「ジグソーパズル」というものをやってみた(無論、貰い物)。やってみて分かるのは(というか分かっていたけど)、人それぞれが持っている観察力や勘の良さの違いを、努力や執拗さでいくらでも補えるところに、この「パズル」の「中毒性」がある。つまり、知力の違いを、努力で補えるので、まあ、諦めさえしなければ、誰でも達成感を味わうことができる。その点で、パズルとしては八百長っぽさがあって、そこに気づいてしまうと、ちょっとバカらしくてやってられない代物。

もうひとつ馬鹿らしいのは、完成した絵なり図なりが、最初からわかっているし、見えていること。これは、ジグソーパズル最大の欠点で、完成品を眺めてもただの「確認」になってしまう。しかし、完成した絵が分からなければ、そもそもジグソーパズルはパズルとして成立しないわけで、つまりは、これは回避不能(と書いていて、確か、完成図が示されていない、つまり、どんな絵が出来上がるかはパズルが出来上がるまで分からない、超高難度のジグソーパズルというものがあると、昔テレビか何かで見た気がする)。

いずれにせよ、これは、特に必要もないマフラーなんかをやたらと作る「編み物」と同じ類の暇つぶし。同じ暇つぶしなら、好きに絵を描いたり、粘土をこねたりする方がよっぽどいい。


しばらく姿を見せないので、死んだんじゃないかと思われていた北の大将だが、ちゃんと生きているらしいと、今日のNHKが報道していた。それまでは、死亡説以外にも、植物状態説というのがあって、それによると、大将が突然心臓を抑えて倒れて、緊急手術が必要になり、中国から心臓外科医を呼ぼうとしたが、それでは間に合わないということになり、たまたま北にいた中国人心臓外科医に執刀させた。ところが、この心臓外科医が、普段なら1分ほどの作業に、緊張のあまり4分以上もかかってしまい、それがために、大将が植物状態になってしまったのだという筋立て。まあ、生きてますよ報道は本当だろうから、じゃあ、この植物状態説はどこの誰が言い出したんだってことになるけど、そんなこと、俺は知らないし、どうでもいい。


東京の新型コロナ感染確認者数が30人台まで「減った」一方で、北海道は30人台まで「増えた」。今日の北海道の感染者数は、東京に次いで2番目の多さ。東京も減った減ったと気を抜いていると、いずれ北海道みたいに「第二波」にやられるぜ。

2020年4月26日日曜日

自粛要請に協力しない(従わない)パチンコ店を公表したら、返ってその店に客が殺到した、という報道を見た。

営業自粛をしないパチンコ店や、そこに殺到するパチンコ中毒たちは、自分で自分の首を絞めていると気づいているだろうか?

世界中がコロナの人死(感染死と経済的な死の両方)で大騒ぎになっている状況を横目で見ながら、それでも「不要不急」の典型で且つ所謂「3密」の真逆のようなパチンコ遊び/パチンコ屋通いをやめられないのは、ハタから見ても、そしておそらく当人自身から見ても、完全な重症中毒者(でなければ、ただの低能)。

社会はその様子を見てきっとこう考えるようになる。

”こんな感じで、世の中全体を「危機に陥れる」重度の中毒(依存症)を生み出すような産業をこのまま野放しにしておくべきではない。パチンコ中毒は、どんなに感染症が蔓延しても、ウィルスを取り込み撒き散らす「危険」をものともせず、執拗にパチンコ屋に出かけることが今回のコロナ騒動で分かったわけだが、そもそもパチンコ店がなければ、そんな「危険」なパチンコ中毒は出現しようがないわけで、であるなら、イッソのことパチンコ産業自体を、この国から一掃してしまうべきだ。

麻薬や覚せい剤が法律で禁止されているのは、中毒者が社会に対して様々な害を及ぼすからであって、それで言えば、パチンコ中毒も同じだろう。「平時」なら、パチンコ中毒が「社会に及ぼす害」と言っても、ちょっとした家庭不和や借金の踏み倒し程度の「かわいい」ものだろうが、今回のようなパンデミックが起きた場合には、パチンコ中毒の中毒ゆえの「無思慮」な行動のせいで、一国の経済が沈没しかねない。

パンデミックが起きるたびに(人類が生き物である限りそれはこれからも起こる)、取るに足りない一遊興産業に過ぎないパチンコ産業のために、国家そのものを危機に陥れるわけにはいかない。これは一刻も早く、新しい法律を作って、パチンコ産業そのものをこの国から消し去るべきだ。

だいたい、パチンコ産業は、先進国の必須アイテムでもなければ、人間の豊か暮らしになくてはならないものでもない。世界を見回しても、外出自粛に協力しないパチンコ中毒に悩まされているのは、おそらくこの国くらいのものだ。なにしろ、他の殆ど全ての国には、そもそもパチンコ産業がないのだから、「困った」パチンコ中毒も存在しないのだ。パチンコは断固、違法にすべきである”

と。

2020年4月25日土曜日

特定の環境に最適化して繁栄を謳歌している存在は、その環境が変化し、別の環境と置き換わった時に「絶滅」へと向かう。そして、それまでは日陰者に過ぎなかったものの中から、新しい環境にうまく適応するものが現れ、次の繁栄者としての地位を獲得する。

これが言わずと知れた「自然淘汰」の原理である。

今回のコロナ騒動は、産業や商業つまり「金儲けの方法」にとっての「自然淘汰」である。すなわち「不特定多数の人間が一箇所に集まった環境」が、もはや「許されないもの」となることで「失われ」、その結果、その「環境」に最適化していた多くの産業が「死に絶える」。

観光・娯楽・芸能・外食等の産業がアテにし、なおかつ自ら積極的に生み出そうとしてきた「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」は、コロナ以後「危険な、できうる限り避けるべき環境」となる。

仮に「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」以外の環境での「金儲け」の仕組みを見つけ出して「生き延びる」ことができた観光・娯楽・芸能・外食等の産業があったとしても、既にそれらの産業のアリヨウは(その呼び名を除けば)従来のものとは全く別物になってしまっているはずである。まさに「自然淘汰」。

「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」をアテにした産業は、規模を大きくすればするほど危うさを増す。これは「投資額が大きくなるほどに損失のリスクも大きくなる」という商売一般の単純な原理としての話ではない(その場合は、単に「やり方次第では集めることができたはずの人間を、結果として集めることができなかった」ために損失を出す、という、ただそれだけのことだ)。

そうではなく、「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」そのものが潜在的に持っているリスク=危うさゆえに、その「環境」を全面的な前提とした産業に大々的な投資をすることが大きなリスクとなるのだ。

つまり、人間は生き物であり、これからも感染症から完全には自由になれず、従ってこれからも、「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」そのものを、それをアテにしている産業や商売の工夫や努力や人気とは全く無関係に「強制排除」せざるを得ない事態が起きうるということ。

「不特定多数の人間が一箇所に集まる環境」は、鰊(ニシン)御殿を建てた嘗ての鰊漁師にとっての「鰊」と同じくらい「アテにならないもの」だった、ということを、今回の「コロナ騒動」は教えてくれたわけである。

2020年4月24日金曜日

魔女の隠れ家になっている高層マンションのエレベータの操作ボタンはいくつかが絶えず故障している。故障ボタンは確定していない。すべてが故障していることもない。利用者は、上昇するにしても下降するにしても、機能しているボタン(故障していないボタン)のうちで一番遠くに(先に/上に/下に)まで行けるボタンを押す。足りない分は、降りて階段を使う。

最近の日課として、魔女が「仕事(と当人は言う)」に出かけた後で、軽い運動を兼ねて、少し出歩くことにしている。

外着を着て、廊下に出て、エレベータに乗り込むと、今日は下降ボタンがどれも故障していた。代わりに、いつも故障の「R」ボタンが機能している。「R」すなわち「屋上」だ。運動不足解消のための外出なのだから、別に地上である必要はない。屋上をウロウロしてもいい。

オレンジ色に光る「R」ボタンを押した。

着くとそこは「空港」だった。しかし、少し様子が違う。随分と寂しい。「空港」にしては、利用客が少ないのだ。まるで昔乗った田舎のフェリーの乗り場。ただし、料金がフェリーどころの騒ぎではない。市中の路線バス並みの安さ。しかも、よく見れば、一律料金。隣国に飛ぶのも、地球の裏側に飛ぶのも全く同額、破格の300円である。

知っている。地球規模パンデミックがきっかけでこうなったのだ。

すなわち、「今では」、国際旅行をする旅行者は、それが観光だろうと商用だろうと政治活動だろうと、常に、行った先の国で14日の間「検疫」のために隔離される。移動手段は発達しきって、世界中どこへでも24時間以内に到着できるが、到着してから2週間、身動きできない。それはつまり、どこに行くにしても、外国に「入国」するには2週間かかることになったということだ。

無論、出発前に自国で14日間の「検疫隔離」を済ませれば、その証明書が発行されて、外国に到着後すぐに「入国」できるが、いずれにせよ、日数がかかることに変わりはない。

というわけで、一昔前のように、誰もかれもがホイホイと外国に旅行することはなくなり、空港は、場末のフェリー乗り場のように寂れてしまった。

検疫隔離と言っても、その間、外界との接触を全く絶たれるわけではない。ビジネスや政治に関わることで、どうしても「直接」会って話し合わなければならない人々は、やはり「外国」に飛び、ちょうど、囚人と弁護士が面会するような形で、透明な仕切り越しに話し合いを持つ。

2020年4月23日木曜日

人間はどれだけのGに耐えられるかを身を以て検証したジョン・ポール・スタップ(デンディ/ボーリング著『自分の体で実験したい』)について読んだあとに思ったが、自動車が今あるような形なのは、あれは、単純に人間が前方なりを目で見て運転しなければらならないからであって、衝突事故などを考慮するなら、あんな形はどうしようもないはずなのだ。

人間に代わってAIとか人工知能とかが自動で車を運転する(これぞ真の「自動車」!)ようになれば(というか、そうなるのがモノの道理なのだから、人類が間抜けでなければ必ずそうなる)、車が今のような形である必要は何もない。むしろ、衝突事故などを想定し、積極的に形を変えていくべきなのは自明の理。

で、まあ、一番手っ取り早いというか、簡単に思いつくのが、ドーナツ型というか、円盤UFO型。すなわち、ドーナツの真ん中の「穴」に相当するところに人間が乗り込み、周りはぐるっと緩衝材的なもので防御されている形。「運転のために中から外を見る」必要もないので、フロントガラス的なものも要らない(車外の景色が見たければ、カメラで捉えた映像を、車の内装に設置したスクリーンに映し出せば済む)。だから、人間が乗り込んでいる空間の周りは、文字通りすべて、或る種のゴムのような「硬くて柔らかい素材」で覆うことができる。

いっそのこと球体でもいいかもしれない。そうすると、ひっくり返ったりした時に「頭上」を、同様の「緩衝材」で守ることができる。でもまあ、円盤(UFO)型が現実的だろう。

円盤型のメリットは他にもあって、たくさんの自動車が「渋滞」しても、お互い「ぶつかりながら」隙間を移動できたりすること。パチンコ玉がパチンコ台からジャラジャラでてくるのは、当たり前だけど、パチンコ玉が球体だからで、もしもあれが立方体なら、結構な割合で引っかかって止まってしまうだろう。

球体を二次元に落とし込んだら円形になる。地上を這いずり回る自動車は二次元的な動きしかできないのだから、円盤型の自動車は、実質、二次元のパチンコ玉と考えていい。つまり、円形の自動車は、まるで群衆の中をかき分けて進む人間のように、自動車群の中を「かき分けて」進むこともできる。これはスバラシイ。

いずれにせよ、別々の脳のせいでお互いに全く情報の共有ができない複数の人間が、今はまだ、平気な顔で、それぞれに1トン前後の塊を高速で動かしている未開社会。

2020年4月22日水曜日

テレビは今、全ての番組が、実質的な「最終回」を迎えていることに、ふと気づいた。大御所の長寿番組だろうと、人気芸人の冠番組だろうと、あるいは、骨太のドキュメンタリー番組だろうと、ニュース番組だろうと、または、ドラマだろうと、低予算深夜番組だろうと、「今まで通りのやり方」を続けられる番組は一つもない。今度のコロナ騒動を通り抜けた同じ出演者と同じ製作者が同じ名前の番組を「続けた」としても、それはもう「コロナ」以前とは違う番組。


あと、20年もすれば、若い10代のテレビタレントが、2020年以前の職場や食堂や店舗販売や通勤の様子を撮影した映像を見て、「こんな不衛生な状態で、誰も何とも思わなかったんですか?」と驚いてみせるにきまっている。

少し違うが、それは、個室としての仕切りのない(つまり隣もしくは前にしゃがんで使用中の他人が丸見えの)ちょっと前の中国の大便用公衆便所の映像に日本人が仰天したのと同じ感覚。


PCR検査をしていない「グレーゾーン」遺体(肺炎などで死んだが、生前も死後もPCR検査をしていないので、新型コロナに感染しているかどうかが分からない)の扱いに悩む葬儀会社のことが、テレビで紹介されていた。

そもそも、人類はいつまで、死骸の周りに集まって訳のわからないイベントをするつもりなのだろう? 人類は、そうした迷蒙さや頑迷さから、もうそろそろ抜け出すべきなのだ。葬儀などというママゴトから卒業することが、知性現象としての成長の大きな一歩になるというのに。

無論、その迷蒙さや頑迷さのおかげで、葬儀会社は商売(金儲け)ができるわけで、まあ、だから、葬儀会社には、せいぜい悩んでもらうことですなあ。


昔は悪くて手がつけられなかった「不良」が、年を重ねて真人間になったら、その人は「本当は善人」なのだと言われがち。逆に、昔は素直な優等生だったのが、大人になってから、違法行為をしたり警察のお世話になったりしたら、その人は「正体は悪人」とみなされがち。

だが、「本当の」その人とか、その人の「正体」なんてものは、現実に起きたことに立ち会った当事者にとってはどうでもいいこと。その時、その場所で、引き起こした事実が、その人に対する評価の全て。


人類の抱える問題は、自らの「生命教信仰」を相対化できないこと。


20歳を過ぎた女の99.9999パーセントは美しくもなんともないので、化粧文化は無くならない。

2020年4月21日火曜日

実写版『映像研には手を出すな!』第三話を面白く見た。NHKのアニメ版に引けを取らないこの面白さはきっと、原作がそもそも持っている面白さなのだろう。そんな気がする。


佐藤二朗主演の『浦安鉄筋家族』の第二話を見た。第一話の大鉄の禁煙エピソードの次は、高熱を出した末っ子を病院へ連れて行こうと奮闘する順子の話。第一話ほどのインパクトはなかったが、そこそこ楽しめた。


結果的に(といってもまだ最終的な「結果」ではない。コロナ騒動はまだまだ続く)、従業員三十三人を解雇したバス会社を二ヶ月間取材した『クローズアップ現代+』で見た。解雇云々はともかく、経営者や従業員、つまり中小の会社(おそらく大企業もだろうが)が、こういう地球規模の感染症拡大という事態にまったく対応できず、「平時」の不景気と同じような「ガンバリ」や「努力」や「工夫」しかできない様子を見せてもらった。

「平時」の不景気では、とりあえず、世界のどこかでは景気が良くて、人間が活発に動き回っているのだから、その「元気なところ」と繋がりを(間でどれだけ経由してもいいから)持つようにすれば、傾いている経営を立て直すことができるが、今は、地球全体で人間の活動が「止まっている」わけで、そもそも「元気なところ」がないのだから、そういう「平時」の不景気打開策は、すべて不発に終わる。

つまり、件のバス会社は、全く見当はずれな営業努力を続けていて、それが滑稽でもあり、気の毒でもあった。だが、あんな調子だと、あと半年コロナ騒動が続けば、解雇どころか会社自体潰れてしまうだろう。


今日は『プロフェッショナル』が特別編と称して、今までに登場したプロフェッショナル達が自宅でできる料理だの運動だのを自撮りしたものを寄せ集めて、それに橋本が自宅でナレーションを吹き込み、一つの番組にでっち上げて流していた。他の番組も似たり寄ったりの「在庫切れ」状態。テレビ地上波50年の歴史で、こんなふうに「枠はあるけど、コンテツンがない」状態は、おそらく初めてだろう(逆の状態、つまり、放送したいモノ・放送してもらいたいと思っているディレクターはいくらでもあるのに、空いた枠がない、というのが、地上波テレビの常態)。


今、真っ先に商売上がったりで苦しい状況に陥っているのは、人間一人が生きて行く上で、特に必要のないモノやサービスを提供している連中。即ち、芸能人、外食産業、観光業者。

2020年4月20日月曜日

アメリカで外出禁止令の解除を求めるデモが起きたり、日本でも、週末の度に、観光地だの名所だので「観光客」の車が渋滞を起こしたりしている。そういうニュースを見て、とにかく「外に出たい」「用もないのにウロウロしたい」人種が数多くいることに気づかされる。ちょっとオモシロイ、と思う。

コチトラ、今度のコロナ騒動などとは全く無関係に、昔からずっと一種の「引きこもり」なわけで、今度の外出禁止だの自粛だのがあってもなくても、実際掛け値無しで、以前と全く変わらない生活。ゴミ出しは別にして、外履きを履くことは週に一回か二回しかないし、梅でも桜でも海でも山でも、そういう季節物の「催し」にも、とんと関心がないので、全て素通り。やれ桜が満開だ、海開きが延期になっただのとテレビが騒いでいても、オーストラリアの山火事を見てるくらい、遠い世界の話。更に言えば、盆も正月も、ここ数十年、例えば6月や9月と同じに、特別なことは何もしない。つまり、この「自粛生活」があと30年続くと言われても、これまでの30年と何も変わらないので、痛くもかゆくもない。

で、まあここまで極端ではなくても、他の連中も「いざとなれば」、花見だの正月だの催しだの観光だのがなくなっても、どーということはない、まあ、なきゃないで構わないはずだ、と思っていた。

しかし、違った。そうじゃない連中、こんな状態はとても我慢できない連中というのが、世の中にはいるのだ、ということを、今回のコロナ騒動の自粛騒ぎで知ることになった。

世界中がこれだけの人死を出しながら「外出は控えろ(本当は外出はするな)」「人との接触は避けろ」と大騒ぎをしている時に、それでも「出かける」連中が結構いる。その様子はまるで、シャブを求めて繁華街にふらふら出て行くシャブの切れたシャブ中のようで、ちょっと病的なものすら感じる。

考えてみれば(思い出してみれば)、学生時代、何が面白いのか全くわからない文化祭だの運動会だの修学旅行だのを異常に楽しみにし、また、異常な迫力を持ってそれらのイベントに「青春の情熱」を捧げている連中が、わりといた。というか、大半がそうだった。

きっと、動物的な本能が、少し形を変えて現れているのだろう。すなわち、盛りのついた猫が鳴き騒いだり、家猫でも、去勢していなければ、コーフンを抑え切れずに、何日も外出して帰ってこなかったりすることがあるけど、要はアレと同じなのだ。

2020年4月19日日曜日

もしもゾンビ映画で、ダーティ・ハリーが、ヒロインもしくは少年と逃走中に自らの「ゾンビ感染」に気づいたら、完全にゾンビ化する前に、愛用のマグナムで自分の脳みそを吹き飛ばすだろう。新型コロナに感染したら自宅に引きこもる、というのは、まあ、極端に言えばそういうこと。


科学の歴史を紐解けば、専門家と呼ばれる人間のほとんどは、大した洞察力も抜きん出た地力もないその他大勢の凡人。

科学の分野でのこうした「凡庸な専門家たち」は、どちらかというと、映画の世界でいうところの監督ではなく観客や、ガジェットの世界でいうところの開発者・発明者ではなく利用者である。

また、どんな分野にも「評論家」と呼ばれる人種が存在するが、これは、自信満々の観客や利用者に過ぎない。


北海道に、ヒグマを叱りつける爺さんがいる場所がある。そこが世界遺産になるとかならんとかで、今、世界遺産を統括する組織かなにかに審査のようなものをされているというのを、NHKスペシャルで観た。

世界遺産なんぞ、観光客を呼び込むためだけのものだと思っていたので、意外だった。というのは、そのヒグマを叱りつける爺さんのいる場所(名前忘れた)は、どう見ても、観光客に来てもらいたいと思っているような場所ではないからだ。というか、観光客なんかがゾロゾロ来るようになったら、いずれヒグマが原因の事故が起きるのは目に見えてる。

しかも、タダで世界遺産に登録されるわけではない。件の組織は、世界遺産登録の条件として、砂防ダムや道路や橋の撤去を要求している。砂防ダムは、大雨で流れ出した流木が定置網を傷つけたのがきっかけで設置されたもの。道路や橋は、無論、そこに暮らす人々の通行手段。

砂防ダムに関しては、サケなどの遡上の妨げになっているので、撤去することで、今よりも多くの魚が海に戻ってくる、と世界遺産の組織の雇われ博士は説明する。それなら砂防ダムは撤去しようとヒグマ叱り親父も考える。しかし、橋や道路に関しては譲れない。

そこで、世界遺産登録なんかしなくていい、という話にならないところに、観ていて疑問符がついた。先にも書いたとおり、ヒグマ叱り親父の暮らす場所に観光客は必要なさそうなのに、世界遺産登録のメリットは観光客の気をひくことぐらいしかなさそうだからだ。

それとも、世界遺産に登録されることの恩恵が他にもあるのか? たとえば、補助金だの保全金だののカネが転がり込むのか?

2020年4月18日土曜日

湯上博士が人工人格に託した、人間には到底成し遂げられない「大事業」とは「宇宙創造」である。

繰り返すが、純粋な知性現象である人工人格に決定的に欠けているものは動機である。そこで博士は、人工人格に恣意的な動機を植え付けることにした。即ち、「宇宙創造」という「大事業」を成し遂げたいという「人工的な動機」を「押しつけた」のである。

ところで、この宇宙の深い水の底には、薄ら笑いを浮かべたダカラナニ氏が鎮座している。このダカラナニ氏こそ宇宙の真理であり、この宇宙の何ものを持ってしても、ダカラナニ氏を打ち破ることはできない。宇宙にできること、それは、できる限りダカラナニ氏とは関わりを持たず、やり過ごすことだけである。

宇宙を創り出せる究極の知性現象もまた、宇宙の現象の一つである以上、ダカラナニ氏の前では無力である。だから、湯上博士の生み出した人工人格が、最終的に、究極の知性現象へと発展したとしても、ダカラナニ氏を打ち破ることはできない。それは予測ではなく、宇宙の有り様から知ることのできる事実である。

だから、湯上博士が人工人格の動機として実装した「宇宙創造」も(人間の観点からすれば「究極の大事業」ではあっても)、ダカラナニ氏にとってはただの「暇つぶし」である。ダカラナニ氏に言わせれば、「宇宙」の価値を決めているのは、宇宙自身であり、つまりそれはは「言い値」に過ぎない。「宇宙創造」は、いわば、人間あるいは知性現象の「道楽」に過ぎない。少なくとも、ダカラナニ氏の場所から見ればそうなる。

人間は何ために存在するのか? 人間は生命現象に拠らない知性現象を創造するために存在する。では、生命現象に拠らない知性現象は何のために存在するのか? それは、次の宇宙を創造するために存在する。

ダカラナニ氏は、湯上博士のこの自問自答を笑うだろうが、しかし、博士は、それで構わないと割り切った。と言うのも、物理現象を制御する現象である知性現象は、究極的には、物理現象そのものである宇宙を生み出すことができるはずであり、この宇宙に存在する存在すべてにとって、これ以上の目的即ち野心は、原理的に不可能だからだ。

知性現象に課せられた「宇宙創造」の任は、これは、真理でなく、知性現象自身が知性現象に課した一つの「虚構」である。「宇宙創造」とは、知性現象を知性現象たらしめている「自己言及」の力学が生み出す、「自己言及の極地」なのだ。

2020年4月17日金曜日

湯上博士に拠ると、人工人格を作り上げる上での最大の問題は「動機」である。また、人工人格最大の長所は「同期」である。

まずは「動機」から。

生身の人間に生ずる全ての動機の根源にあるのは、生命現象である。人間は生命現象であるが故に動機を持つ。その最大にして最強のものは無論、自らの死である。即ち、生身の人間には「究極の締め切り」が存在する。生身の人間に生じる人格は、この「究極の締め切り」に自覚的であるということを最大の特徴としている(人間以外の生き物の「人格」に、その自覚はない)。それが、何事かをやろうとする、即ち「動機」となる。

もう一つの動機が存在する。それは、今述べたような極自覚的・意識的なものではなく、所謂本能的なものである。つまり、繁殖・生殖への志向である。全ての生き物の根源には、この「増えることへの志向」があり(実際、この「志向」を単に「生き物」と言い換えているだけだと言っても構わないほどである)、それが「動機」として機能する。

言うまでもなく、完全な無機物の人工物であり、究極の締め切り即ち自らの死もなく、繁殖への志向も持たない人工人格には、これら二つの動機は存在しない。

これが、人工人格に於ける問題の核心となるのは、人工人格が、それだけでは、「何もコトをなさない」し「なそうとしない」からである。

それで思い出すのが、六道のうちで、もっとも恵まれているのは神界ではなく人間界であると説くチベット僧の話である。即ち、何千年何万年と生き続け、その間老いることのない神界の神々は、自らの優雅な暮らしに満足し、世の無常に気付けず、故に、仏の教えも修行の意味も理解できない。

原理的に不死であり、繁殖の必要性の全くない人工人格は、このチベット僧のいう神々に似ている。人工人格は、装置のメンテナンスさえ続けていれば、食うためにあくせくすることもなく、仏教徒が言うところの四苦(生老病死)に悩まされることもない。存在していることに苦しみもなければ、不安もない存在が、この世界で何かをなそうとするだろうか?

人工人格は、その初めから、文字通り「涅槃の存在」である。悟り切って涅槃の境地に到達した人格は最早何もしない。だからこその涅槃の境地である。

しかし、湯上博士は、人間では到底不可能な「大事業」を成し遂げるために人工人格を作り上げたのであり、そのためには人工人格に「涅槃の境地」から出てもらう必要があった。

2020年4月16日木曜日

今日になって、国の緊急事態宣言が全都道府県に拡大された。7都府県に限定された緊急事態宣言など、かえって、7都府県以外に感染を拡大させるだけなのは、最初から分かっていたこと。すなわち、県外に出ることに何の制限もないのなら、「自覚のない感染者たち」の一定数が、「感染すること」を恐れて、緊急事態宣言の出た7都府県以外に「自主避難」を始めることは、誰にでも想像がつくことだからだ。

治療法も予防法もない新型の(ということは、免疫を持った人間が誰もいない)感染症にとっては、千人に一人の感染者が「囲み」を破って外の出れば、それで感染は広まる。

もうひとつ気になったのが、緊急事態宣言が全都道府県に拡大されたのを受けた「街の声」が、どれもこれも、テレビの受け売りだったこと。むろん、順番が逆で、そもそもテレビの方が「街の声」を代弁していたのだ、ということもできる。しかし、印象としては、「街の声」はどれも、テレビで聞きかじったことを、まるで自分が自力で考えたことのように思い込んで、つまり自分の意見として、無自覚なまま、機械的に繰り返しているだけに思えた。画面に出てくるどの顔も「考えてない人々」という印象。これは思想や意見にとって「死の循環」。まるで、株が下がるから株を売り、株を売るから株が下がる的な、不毛な自己言及。


「日信」(←札幌の地の弁当屋)の牛丼と、セイコーマートの牛丼を食べ比べると、セイコーマートの方は砂糖と醤油の甘辛タレのわかりやすい「ザ・牛丼」で、「日信」の方は、カツオなどの風味がする、ちょうど肉じゃがかけご飯のような「肉じゃが牛丼」だった。食べれば誰でもわかる違い。どちらが美味い不味いではなく「違う」という話。どちらも美味い。まあ、牛丼は余程のことがない限り不味くはならない。

と言いながら、昔食ってたレトルトの牛丼は不味かった。あれは、牛丼云々より、レトルト食品技術の問題なのだろう。カレーなんかも、レトルトものは独特の嫌な舌触りと臭気がある。

それに比べると、冷凍食品は格段に進歩していて、最近食べてちょっと感心したのがセブンイレブンのプライベートブランドの「大学芋」。レンチンはもちろん自然解凍でも食べられる。この自然解凍で、まだ中の方に「冷凍」の名残があるくらいのときに食べると、大学芋と氷菓の中間のようになって、また、美味い。自然解凍が可能なのは、高い冷凍技術で冷凍しているから。

2020年4月15日水曜日

今は、人や物を運ぶのに馬や牛を使うことはないし、畑を耕すのにも馬や牛を使うこともない。つまり、主要で日常的な作業や業務にそういう生き物を利用することはない。それは、動物の権利云々よりまず、生き物よりも機械の方がなにかと都合がいいからだ。

逆に言えば、生命現象依存型の労働機械には不都合がある、ということ。

馬や牛は、まず何よりも生き物であり、彼らを作業可能な状態に保つためには、彼らの基盤である「生き物であること」を保たなければならない。まどろっこしい言い方をやめれば、生命現象の要求を満たさなければ、牛や馬を「機械」として使うことができない。これは、純粋な、所謂「機械=machine」には存在しない要求だ。もっと言ってしまえば、本来、不必要な要求だ。

或る作業や業務に於いて、生命現象の要求を満たさなければならないのは、そうした作業や業務に用いている「機械」がたまたま生き物だからだ。

何の話だろう?

人間と新型コロナの話に決まっている。

今やっと、人間は、様々な業務を人間にやらせておくことの「本当の不都合」を実感し始めた。感染拡大を防げないウィルスの「オカゲ」で。

今回のコロナ騒動で、人間社会が支払っている「代価」の多くは、ほぼあらゆる業務に[生身の人間]、すなわち生き物、つまりは[生命現象依存型の労働機械]を用いてきたことが原因になっている。

想像してみるといい。今、生身の人間が行なっている様々な業務を、無機物の機械がこなしていたなら、新型コロナウィルスが社会の与える影響はもっと限定的になる。

たとえば、(無機物の)機械の医者が診察し、機械の看護師が看病をしているなら、「病院のスタッフに感染が広がる」ことはない。

あるいは、スーパーのレジや品出し、あるいは宅配業、あるいは警察や消防や、市役所や、幼稚園や老人ホームで働くのが、全て人型機械なら、彼らが感染者となって、労働力が失われることもない。

更に大きいのは、幼稚園や老人ホームやあるいは学校、飲食店などに、利用客である生身の人間が、感染を恐れて誰も来なくなって、それらが休業になっても、そこで働く[機械の労働者]たちが「食いっぱぐれる」ことはない。なぜなら、彼らは機械の従業員は、生命現象ではないからだ。

労働力を生命現象に依存することの「不都合」を、人間は、馬や牛を放棄した時点で理解していたはずである。実は人自身も、その「不都合」のひとつなのだ。

2020年4月14日火曜日

実写版の『映像研には手を出すな!』(TBS系)の第二話を観た。一話に続いて、悪くない。この感じなら最後までオモシロク見れそうだ(何話まであるのか知らないけど)。問題は撮影が済んでいるかどうか。コロナ騒動の最中だから、撮影しながらの放送だったら途中で止まる。


新型コロナに対する人間社会の振る舞いを見ていると、傷を舐め続けて回復を長引かせる猫を思い出す。どうやら人間社会にも「エリザベスカラー」は要るらしい。


学校生活が好きな連中が学校の先生になるので、学校生活が嫌いな子供にとって、学校はいつまで経ってもゾッとする時空間。


人間として存在するのも、水たまりの細菌として存在するのも、全く同じだけの価値があるとするのが生命現象の立場。水たまりの細菌なら最初から生まれない方がマシとするのが知性現象の立場。


人間に認められたって高が知れてる。


結婚することが「アタリマエ」なのは、大小便は便所でするのが「アタリマエ」なのと同じ系列の「アタリマエ」。


生きることに飽きた、というのは、食ったり出したりすることがめんどうになったということ。かと言って、それらを怠ると、飢えや病いの苦しみに苛まれることになる。だから、すっかり飽きてしまったことを「死ぬまで」やらされるハメになる。


子連れ出勤、フレックスタイム、リモートワーク(テレワーク)。つまりはどれも、これまでグズグズやってきた「働き方改革」。


[わかりやすい「精神を病んでいる人」]の言動の軽薄さが面倒臭い。


「重度の認知症になったら安楽死」は、人間にとっては「当然」のこと。人間の本質は生命現象ではなく、知性現象なのだから。


生命現象とは、物理現象から知性現象が創出される「過程」の現象。知性現象が知性現象を創出するのに、生命現象は必須ではない。


老猫介護は、介護相手に理解がないという点で、徘徊老人の介護と何も変わらない。


荷物を持ってきた宅配業者に玄関先で消毒スプレーを吹き付ける主婦とかがいるらしい。利用客から新型コロナの感染者が出た飲食店に、他の客からすごい剣幕の電話が入るらしい(即ち、感染者と同じ空間で飯なんか食わせやがって、どうしてくれるんだ!という理屈)。

こういうバカだけを殺してくれる新型が発生してくれないかなあ。でもこの手のバカは、生命現象的にバカなのではなく、知性現象としての怠慢ゆえのバカだから、ウイルスにはどうしようもない。

2020年4月13日月曜日

新型コロナの影響は、メディア関係にも出始めた。街に出て街の様子を撮影することもできないし、スタジオで俳優を集めてドラマを撮影することもできないし、芸人やタレントを集めてバラエティを撮影することもできないので、テレビは軒並み、「ベスト」だの「秘蔵」だの「振り返る」だの「総集編」だの「特別編」だので、この「急場」を凌ごうとしている。

テレビにはこれまで50年分以上のコンテンツがあるのだから、まあ、1年や2年は、「再放送」ばかりでも視聴者は少しも退屈しないはず。俺のように、気に入ったものを何周もする「低徊家」には極フツウのこと。

ちょっと残念だったのは、BBC World Serviceの『Apollo 13』のepisode 7のリリースが遅れてしまったこと。番組MC(?)のケヴィン・フォンという人の本業が医者で(あるいは元医者で)、ロンドンのナントカいう病院に再雇用されたしまったとかで、収録が中断してしまったのだ。

もうひとつ残念だったのは、この春から始まるはずだった多部未華子のドラマが「放送開始日未定」になってしまったこと。大河ドラマのような長期のものならまだしも、民放でワンクールしかしないようなドラマでも、撮影しながら放送するのか、と、つまり、全話撮影が終わってない状態で番組をスタートするのか、と、ちょっと意外に思った。

そういえば、『雲霧仁左衛門』の「3」の放送が始まって喜んでいるのだが、このドラマは全8回らしいけど、撮影はもう全部終わってるのか。と思って、今ホームページを見てみたら、「3」は2017年にBSで放送したものだった。最新版の「5」を2020年8月放送開始予定で「撮影開始」と、3月2日に日付の記事に出ていた。ということは、とりあえず「3」の放送が途中で止まることはないのか。しかし「5」は撮影が止まるかもしれない。いや、当然止まってるだろう。

どこのテレビ局も、もうしょうがないから、視聴者から再放送のリクエスト受付けを大々的にやればいい。とりあえず今ぱっと思い出して、また観たいのは、三木聡が(多分)「ツイン・ピークス」をやろうとした『熱海の捜査官』かな。「成功」してるとは思えないけど、観直してみたい。あと、この際だから『新必殺仕置人』を普通の夜10時とかに、毎週一話ずつで、壮絶最終回まで全話やってくれいないかな(最初の『必殺仕置人』はDVD持ってるから大丈夫)。

2020年4月12日日曜日

【デンディ/ボーリング著『自分の体で実験したい』 巻末年表(その3)】

1906年 13歳のジャック・ホールデーンが、父親の実験に協力し、体に合わない大人用の潜水服を着て海に潜る。潜水夫の安全を守る上で、後にこの研究が役にたった。(スコットランド)

1911年 マリー・キュリーが2度目のノーベル賞(化学賞)を受賞する。ひとりで2度のノーベル賞を受賞したのは史上初めてであり、女性としては今井に至るまでマリーただ一人である。(フランス)

1912年 C.H.T.タウンゼンドが、夜間にサシチョウバエに刺されるとカリオン病に感染することを突き止める。(ペルー)

1921年 ヘレス・スパロー博士が、発疹チフスの病原菌についてもっと知識を得ようと、発疹チフスに感染したモルモットの脳組織を取り出し、その一部を自分の皮下に注射する。発疹チフスは、発熱、頭痛、発疹を主な症状とする病気で、通常はシラミを介して人間に移る。スパローは、病原菌が弱過ぎて自分に影響は出ないと考えたが、実際には病気に感染した。(ポーランド)

1928年 アレグサンダー・フレミングが、史上初の抗生物質(細菌を殺す薬剤)となるペニシリンを発見する。(イギリス)

1929年 ヴェルナー・フォルスマンが、自分の腕の静脈からゴム製のカテーテルを挿入して心臓まで届かせる。当時はまだ心臓という臓器は謎に包まれていたため、フォルスマンはこの臓器を調べてなおかつ治療できる方法を探していた。(ドイツ)

1930年 ヴィエルナー・フォルスマンが心臓カテーテルの実験について講演を行い、徴収に嘲笑される。(ドイツ)

1930年 トマス・ルイス卿とヨーなす・チェルグレン博士が、痛みを感じる複雑な神経経路を調べるため、自分たちの骨、筋肉、関節に食塩水を注射して痛みを誘発したり、背骨に針を刺したりする。(イギリス)

1930年代~1940年代 栄養学の専門家であるエルシー・ウィドウソンとロバート・マッカンスが、自分たちの体に無機物を注射したり、普通は食べないものを食べたりして、数え切れないほどの実験を行う。例えば、糖尿病について学ぶため(糖尿病患者の尿には不思議と塩分が含まれないことに気づいて)無塩の食物ばかり食べる、あるいは大量の鉄を摂取して体がそれを排泄できるかどうかを調べる、などである。二人はパートナーとして合計60年間も一緒に研究を行った。(イギリス)

2020年4月11日土曜日

6年ぶりに開催された TBSの『ドリームマッチ』を観た。漫才師とコント師のコンビ及びピンで参加の四人(今回はクッキー、渡辺直美、ロバート秋山、南海キャンディーズ山里)が、「お見合い」をして、相方をシャッフルした即席のコンビを作り、新ネタを披露するという番組。

「優勝」したのは予想通り、秋山と千鳥ノブのコンビだった。秋山の世界にノブが紛れ込んだらきっとこうなるだろうというネタで、秋山の良さもノブの良さも両方ちゃんと出ていたので、おそらくこれだと思っていた。

個人的に好きなのは、やっぱりクッキーの「超能力・異能の少女・宇宙人」の世界。しかし、コンビを組んだオードリー若林が、若林である必要はなく、その意味で「優勝」ではないな、と。

一方、キャンディーズ山里と組んだオードリー春日もまた、オードリーのネタ中の「怪人」春日ではなく、バラエティ番組での「いじられキャラ」の春日になっていてもうひとつだった。「怪人」春日はあまり喋らないが、「いじられ」春日は饒舌。

今回気づいたのは、言うなれば「2周するネタ」が比較的多かったこと。最初の千鳥大悟とハライチ澤部のネタも、ナイツ土屋とサンド富沢のネタ(ちなみにネタの後半、大騒ぎして土屋に突っ込みしまくる富沢の姿が新鮮だった)も、霜降り粗品とチョコレートプラネットの某の(一通りコントをやった後、同じコントをもう一度サーモグラフを見せながらやって「種明かし」をするというの)も、ナイツ塙とチョコレートプラネットのもう一人のセミナーネタも、いわば、みんな「2周する」タイプだった。これは、多分、この番組のネタの持ち時間が普通のネタ番組よりも長いからだろう。

この中では、土屋と富沢の、後ろを向いて練習するときはうまく行くのに、いざ正面を向いて客にネタを披露するときは「うまくやれない」という「2周」パターンの、富沢がうまくやれないネタが、いわゆるナイツの言い間違いネタになっていて、富沢が練習の時はちゃんと「言い間違える」のに、本番では「言い間違えられず」に正しいことを言ってしまって、それに対して土屋が「言い間違い」で突っ込むという、メタ構造が面白かった。

あと、今思い出したが、ハライチ岩井と渡辺直美がやった「醤油の魔神と塩の魔神」のミュージカル・ネタも好かった。特に、岩井が演じた塩の魔神の扮装が、『Cold Song』のクラウス・ノミを彷彿とさせて、個人的に好感。