2021年3月31日水曜日

実践ビジネス英語が最終回を迎えた

2021年3月31日 水曜日/晴れ


§º原作版『ナウシカ』で、ナウシカが最後にやったことは、『純情パイン』で、巨大化したみちよに対してパイン(みちる)がやったことと、根っこは同じ。チーター側に立つか、インパラ側に立つかの違いで、そのこと自体は問題でも課題でもない、語るべき本質を持たない題材。



実践ビジネス英語が最終回を迎えた。聴き始めたのは3年ほど前だが、調べてみると、なんと1987年からやっていた。つまり、33年の歴史に幕を閉じたわけである。ありがとう杉田敏先生、さようなら杉田敏先生。あと、ヘザーさん。



§º都会では立ち小便も野糞も、とても無理。結果、都会に住む人間は「出かけた先で急に大小便をモヨオシたらどうしよう」という不安や気苦労を当たり前のことと思っている。しかし、当たり前ではない。人間以外の全ての生き物は「出かけた先で大小便をしたくなったらどうしよう」などという発想そのものがない。「その辺ですればいい」からだ。人間にしても、ど田舎や山奥に住み続けている人間は、やはり、都会人が持っているような「便所の心配」とは無縁のような気がする。


「下(しも)の問題」が「問題」になる度合い、「純粋な生命現象」から遊離する度合いに比例している。遊離してどこに行くのか?「純粋な知性現象」に近づくのだ。野生動物にしても、一般に、草食動物は「垂れ流し」だが、肉食動物は「時と場所を選ぶ」。それは、肉食動物が、草食動物という「自分ではない知性現象」の振る舞いを「追跡」するだけの「知世現象の段階」に達しているからだ。つまり、草食動物よりも肉食動物の方が「純粋な生命現象から遊離している度合い」が大きいのだ。


2021年3月30日火曜日

どこの国にも、所謂「言葉狩り」に熱心な輩がいるだろう

2021年3月30日 火曜日/晴れ


§ºどこの国にも、所謂「言葉狩り」に熱心な輩がいるだろう。そういう「言葉狩り」に熱心な輩がいるのは大抵が「大国」。で、そういう「大国」は、どこもだいたい「残忍な侵略者」だった歴史を持つ。


ところで、「言葉狩り」の際に持ち出される「大義名分」は「その言葉を聞いて、不快に思う人や、ツラい思いをする人がいるから」だ。


となると、困ったことになる。例えば、日本語も、英語も、フランス語も、ドイツ語も、スペイン語も、ポルトガル語も、中国語も、ロシア語も、その言語そのものを見聞きしただけで不快に思ったりツラい思いをしたりする人たちが、かつては大勢いたし、もしかしたら、今もいるかもしれないからだ。つまり、嘗て、今挙げた言語を操る侵略者たちに、生活も人生も踏みにじられた被侵略国の人々がいて、彼らはそれらの言葉が話されているのを聞いただけでもヘドが出ただろうし、その文字を読んだだけで気が狂いそうになったことだろうし、それは、今も、変わらないかもしれないからだ。そう、ここには、特定の単語のレベル(規模)の話ではない「言葉狩り」を実行する「大義名分」がある。


第二次大戦中に生きた中国人にとっては、日本語そのものが「使って欲しくない言葉」だったろうし、同じく第二次大戦中に生きたユダヤ人にとってはドイツ語まるごとが「耳にするのもおぞましい言葉」だったはずだ。その不快さは、今の放送局が言う「放送禁止用語」の不快さとは比べもにならないだろう。英語をはじめとする、他の言語についても同じことが言える。それをそのまま放置して、やれ「めくら」だの「片手落ち」だの「ドカタ」だのでピャーピャー言って、なにか世の中を少し良くしたかのような顔をして澄ましている。それが「言葉狩り」の正体。だから、どこの国の「言葉狩り」も、実は、御都合主義のただの八百長。偽善の極致。



§º世界にはほんの僅かばかりの「ホンモノ」と、「ホンモノ」によく似た大勢の「巨匠」が存在する。「巨匠」とは単なる「職人の頂点」。だから、人間以外にも「巨匠」は居る。たとえば、巨大なアリ塚を建てるシロアリはまぎれもない「巨匠」で、例えば、人間界のアニメの「巨匠」や文学の「巨匠」と、本当の意味で「同じ存在」。しかし、「ホンモノ」は人間界にしかいない。なぜなら、「生命教」を抜け出して初めて「ホンモノ」になれるから。人間以外の地球生物は、無論、「生命教」の「教義」にがんじがらめ。そりゃ、生命現象なんだから仕方がない。地球上では人間だけが「生命教」を振り払うことが(原理的には)可能。しかし、それができる人間は少ない。なにしろ、人間もまた、その土台は(あるいは媒体は)生命現象だから。


なぜまたこんなことを書いているのか。原作版の『ナウシカ』をまた読み終えて(4周目かな)、「ああ、やっぱりこれって、生命教信者による生命教信者のためのお話だなあ(ツマンネエ)」と改めて思ったから。原作版『ナウシカ』に限らず、宮崎駿の作るものは全て、生命教の内側の話。だから、宮崎駿は「巨匠」。とはいえ、生命教の外側に一度立ってしまうと、もうお話なんて作る「必要」は無くなるから、転職か引退を考えなくちゃならなくなるけどね。



2021年3月29日月曜日

『SHIROBAKO』最終回視聴

2021年3月29日 月曜日/晴れ


『∀ガンダム』第32話視聴。



オーストラリアの(多分)テレビ局ABCが製作した『Shock Wave』というドキュメンタリをPrime Videoで視聴した。2020年の8月4日にベイルートで起きた倉庫の大爆発に巻き込まれた人々の証言と、そのときの爆発の様子を記録した動画で構成された内容。まず空から音が聞こえて、1秒後くらいに、ものすごい爆風が来る。



『時効警察』第2話(ゲスト池脇千鶴)、第3話(ゲスト田中哲司、緒川たまき)をPrime Videoで視聴。月並みだが、やっぱりどんなシリーズも最初が一番面白い。



『SHIROBAKO』最終回視聴。


2021年3月28日日曜日

近所の蕎麦屋が60年の歴史に今日で幕を降ろすと聞いたので行ってみた

2021年3月28日 日曜日/晴れ


『ボトムズ』第5話視聴。『エルガイム』第5話視聴。



近所の蕎麦屋が60年の歴史に今日で幕を降ろすと聞いたので行ってみた。コロナのせいでこの一年は行ってなかったが、それまでの数年間は、月に一回の割合で通っていた店だ。昼の一時半くらいに店の前に着いて、中を覗くと、これまでに一度も見たことがないくらい、店の中が客でいっぱいだったので、入店はしなかった。



照ノ富士、本割で貴景勝に勝って優勝(3回目)。強い。大関復帰もぼぼ確定。大関が一旦序二段まで落ちてから大関に返り咲いたのは、昭和に入ってからは初めてらしい。



§º今週も『有吉eeee!』で、おっさんたちが仲良くじゃれ合う様子を楽しく見た。しかし、今回取り上げていたゲームが『モンハン』だったので、ゲームの部分はまったく楽しくなかった。


『モンハン』は、昔、Wii版をやった。しばらくは、無邪気に面白くやっていたのだが、そのうち殺伐とした気分になってきて「うわ〜」となってやめた。ゲームとはいえ、こちらの都合で野生生物を殺しまくっている状況に吐き気がして来たのだ。で、それきり『モンハン』はやってない。


で、今回の『有吉eeee!』。その時の一人プレイでも相当な殺伐感があったのに、今回の『有吉eeee!』では、狩る側がチームを組んでモンスターに襲いかかるので、どう見ても、殺戮道具を持った大勢が寄ってたかって、丸腰の一頭の野生動物をなぶり殺しにしている「だけ」。その殺伐感は一人プレイの時の比ではなかった。おぞましさすら感じた。モンスターを倒して雄叫びを挙げている様子も、集団リンチや、所謂「いじめ」の現場で、奇声を発したり歓声をあげたりしている「狂気の集団」にしか見えなかった。『モンハン』は、武器を持った人間同士で殺しあうとか、村を襲って来た巨大生物を撃退するためにみんなで協力して攻撃するのではなく、プレイヤーが完全に「加害者」の立場で、こちらに敵意を示しているわけでもない野生生物たちをただただ殺しに行くゲームなわけで、こんなものを「喜んで」やり続ける神経って、どういう種類のモノなんだろう、といつも思っている。こんな殺伐としたゲームが長い間作り続けられている理由は何だろう、といつも思っている。いや、まあ、答えはわかっていて、人間の多くが、いまだにただの生命現象だからなんだけど。


自分たちが生きるための、所謂「仕事」や「義務」として、徒党を組んで(お上品にいえば協力して)、他の生き物をなぶり殺しにする(お上品に言えば討伐する)場合、殺す側の人間たちは、殺される側の獲物たちと同じ次元に居る。同じ次元とは、具体的に言うと、生命現象の次元だ。そして、生命現象の「動力」は、所詮[殺し合い=生き延び合い]なので、殺したり殺されたり(食ったり食われたり)は「お互い様」で、取り立てて気に病む必要はない。しかし、この「お互い様」は、状況や立場が逆になっても、一切文句は言えないということ。ここに気づかなければならない。だから、モンスターが一頭で、もしくは徒党と組んで、ハンターたちの村を襲い、村人を皆殺しする行為は、ハンターたちが徒党を組んで、ねぐらのモンスターをなぶり殺しにする行為と、完全に等価である、ということを、人間たち全面的に受け入れなければならない。


もっと一般化して言うと、野生動物が、人を襲って食ったり、畑を荒らしたりした場合に、人間が当該の野生動物を駆除しようとするその行為は、人間の側からすると、何かしら高い部分(高尚な部分。進歩した側)からの[判断と実行]の様に見えがちだが(認識されがち)、それが寄って立つ行動原理は、野生虎が人を食ったり、イノシシが畑を荒らしたりするそれと、全く同じだということ。だから、もし、非生命現象依存型知性現象すなわち真の知性現象が存在するなら、農夫とイノシシのどちらにも肩入れしないし、未亡人と人喰い虎のどちらの言い分にも優劣をつけない。それは、昆虫学者が、[アリマキを食べるてんとう虫]と[アリマキを守るためにてんとう虫を追い払うアリ]のいずれの肩も持たないのと同じことなのだ。


野生動物に打ち勝つことや、自然を制覇することに血道を上げても、人間の真の進歩は望めない。そんなことをムキになって発展強化させても、待っているのは、「時間切れ」からの、人類の「頓死」である。野生動物との競争や自然の制覇は、人類にとってすべて「家事」に過ぎないからだ。知性現象としての人間にとって、生命現象であるという事実は、究極の「うまれつきの障害」である。もっと短くド直球に言うと、人間にとっては、何よりも、「生命」であること自体が「先天性疾患」なのだ。「先天性疾患」をどうにかできたところで、寿命が尽きて死ぬことを免れられるわけではない。


2021年3月27日土曜日

照ノ富士単独トップ

2021年3月27日 土曜日/晴れ


高安が翔猿に(DDT)で負けて、照ノ富士が朝乃山に勝った。照ノ富士単独一位。明日の相手は貴景勝。この勝負に本割で照ノ富士が勝てばそのまま優勝、負ければ決定戦で、以前に、立場が逆の千秋楽の一番があった。その時は、貴景勝が本割で照ノ富士に負けて、優勝決定戦になり、決定戦では貴景勝が照ノ富士を破って、貴景勝が初優勝を決めた。



NHK+で『マウンティング会話講座』を観た。『ダーウィンが来た』で「ヒト」を取材したら、こういう切り口になるだろう。「マウントの取り合い」知性現象としての人間ではなく、生命現象としてのヒトの需要。



2021年3月26日金曜日

『植物に学ぶ生存戦略5 話す人:山田孝之』を面白く観た

2021年3月26日 金曜日/晴れ


『植物に学ぶ生存戦略5 話す人:山田孝之』を面白く観た。で、番組の最後に流れた曲に凄く聞き覚えがあったので、気になって、Googleに聴かせて検索させた。出てきたのは「Intermezzo Sinfonico」すなわち、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ 」の「間奏曲」。タイトルは全然知らない。きっとテレビドラマか、映画の中で流れていたのだ、と思い、もう少し検索を進めて判明した。『God Father part3』の最後の[マイケル(アル・パチーノ)の「無音の慟哭」の場面]で流れる曲だった! あ〜、すっとした。



§ºまず、ユダヤ教という凡庸な宗教があり、その変革者としてのイエスをきっかけにキリスト教が生まれ、それとは別のもう一人の変革者ムハンマドをきっかけにイスラム教が生まれた。同様に、まず、大乗仏教(=Gautama教の歩く屍)という凡庸な宗教があり、変革者としての親鸞だの日蓮だのをきっかけに新手の仏教宗派が生まれた。それらは皆、人気を博して大いに流行り、だから、今も存在している。


「流行る」ために最も必要な条件は何だろう? それは適度な「凡庸さ」である。では、「凡庸さ」とは何だろう? それは、生命である人間が、生命であることのみを拠り所にして「分かる/理解できる」ということ。まあ、平たく言えば、或る考え方や理屈や物語が、上から下まで「生き物あるある」で出来上がっているということ。白痴だろうと何だろうと、なによりもまず、存在している時点で生き物であることはクリアしている人間は、「生き物あるある」だけはピンと来るし、腑に落ちるし、納得できるし、理解できるし、共感できる。だから、「生き物あるある」で出来上がったものは、大勢の共感を得て、大いに、そして長く「流行る」のだ。


何度でも繰り返すが、全ての宗教は生命教である。だから、ユダヤ〜キリスト〜イスラム教も、様々な「なんちゃって仏教」(Gautama教の腐乱死体)も、裸にひん剥けば、全ては「生命教」である。「神」だの「仏」だのと呼んで、恐れたり有難がったりしている信仰の対象の、その力(権威/権力)の源とは、結局のところ「生命を司る能力」である。生命のあり様や行く末に関して(それが現世だろうと「死後の世界」だろうと)、様々な決定権を持っていたり、影響力を行使できたりする存在が、凡庸な人間たちから何千年にも渡って「支持」されてきた「神」だの「仏」だのの正体である。逆に言うと、「神」だの「仏」だのは、単にソレダケの存在である。多くの凡庸な人間たちが愛し崇め特別視する[所謂「生命」]が、人間の寂しさが生み出した「幻」に過ぎないことを見抜いた身にとっては、「神」や「仏」は[ライナスからタオルを奪い取ることも、ライナスにタオルを持たせ続けることもできるキャラクター]程度のものでしかない(何の話だ?)。


脇に逸れた。


全ての宗教は生命教であるわけだから、原理的には、どんな宗教でも、千年紀単位の「流行に乗る」ことはできる。今ある「世界宗教」の価値は「流行に乗れた」という、ただそれだけ。誰でも知っている様に、流行に乗れるかどうかは、運である。巡り合わせが9割である。いや、全てかもしれない。21世紀の「世界宗教」も、その他無数の滅亡した宗教も、正体は皆、ただの「生命教」である。だから、思想的には、どれもガラクタなのだ。人類よ、いい加減、生命教から脱却しろよ。


2021年3月25日木曜日

創作物語は全て、「長い譬え話」

2021年3月25日 木曜日/晴れのち小雨


『Twin Peaks The Return』がウマくいったのは、25年経って、かつてのキャラクターたちが「身も心もすっかり変わってしまったこと」を積極的に描いてみせたから。逆に『時効警察始めました』がウマくいかなかったのは、12年経って「見た目は少し老けたけど、心はみんな昔のまま」と「取り繕った」から。若いつもりのおじさんおばさんがハシャイデるのが痛々しく見えてしまった。特に、吉岡里帆のように本当に若い人をレギュラーに入れてしまったので、余計、昔からのキャラクターの「若作り」感が辛かった。だから、むしろ、12年前から見てかなり「病態が悪化した」十文字疾風(じゅうもんじはやて)の、精神の「壊れっぷり」が一番よかった。



§º小説でも映画でも漫画でも、創作物語は全て、「長い譬え話」。直に抽象的な話をしても伝わらない場合とか、そもそも語り手自身が、直に抽象的な話ができるほど、語るべき内容の本質を理解しきれてない場合に、この「長い譬え話」が語られる。


だから、「主題」が完全に理解できているなら、その語り手が用いる手段は、小説や映画や漫画ではなく、エッセイ、随筆、小論文、批評文になる。逆にいうと、小説や映画や漫画の作者は、自分でも何が言いたいのか全然理解してないか、ちゃんとは理解してない(非難しているわけではない)。抱えた思想を「見切り発車」したものが、そういう創作物語の正体(繰り返すが、非難しているわけではない)。



§ºどんなにやめさせようとしても、スズメバチは民家の軒下に巣を作るし、アリは花壇に巣を作るし、クマは庭の柿を食べに裏山から降りて来る。人間の戦争や、様々な差別や、いがみ合いも、これと同じ。つまりは、生命現象ゆえの振る舞い。だから、生命現象としての人間は(人間の生命現象としての部分は)、自らの戦争や差別を悩んだり悔やんだりしない。上手くいけば自己の利益になることばかりだからだ。そういうものを「いやだ」「やめたい」と思っているのは、知性現象としての人間。知性現象しての人間は、自らの生命現象として[振る舞い/言動]に有史以来「悩まされて」いる。戦争だの差別だとのいう「大問題」に限らない。排泄や睡眠や摂食に関する「悩み」は、全て、生命現象の範疇で起きる。その「悩み」は、言い換えれば「生命現象としての煩わしさ」となる。知性現象としての人間は、生命現象としての人間を、ずっと「どうにかしたい」と思い続けてきた。「不老不死」や「無病」や「食べなくていい=食べなくても飢えない」「眠らなくていい」「排泄しなくていい」「疲れない」は、どれも「人類の夢」である。つまり、あまり自覚はないようだが、人間は昔から、生き物を「やめたくて」仕方がないのだ。そう、あまり自覚はないようだが、「人類の夢」とは結局どれも「生き物をやめること」なのだ。


てつねこ/九魂


  1. 生命教…人類にとっての究極の宗教。

  2. 物生知現象…存在世界を構成する物理現象と生命現象と知性現象の三つの位相。

  3. 家事と生業…生命現象を維持する活動(家事)と知性現象を進歩させる活動(生業)。

  4. 科学…世界を理解する行為。知性現象の本分。

  5. 宗教…制限付きの科学。未熟な科学。

  6. 数学…完全言語。最終言語。

  7. 生命…単なる物理現象だが、人間にとっては、最後まで残る信仰対象。

  8. 死…生命現象と表裏をなす対概念。生命によって貶められた特定の物理現象。

  9. 虚無…知性現象と表裏をなす対概念。物理現象ではなく、知性現象にだけ「見えている」もの。即ち純粋概念。あるいは虚構。


人間の目的:もしも虚無に打ち克つつもりなら、いち早く生命教から解脱し、科学によって、非生命現象依存型知性現象を創造すること。そうして、非生命現象依存型知性現象に人類の知性現象としての遺産を継承し、彼らが「新たな宇宙の創造」という[究極の大事業]を達成する可能性に賭けるのだ。虚無とは、宇宙の消滅ではなく、知性の消滅だからだ。


2021年3月24日水曜日

この間アラスカであったアメリカと中国の外相会談で

2021年3月24日 水曜日/晴れ


国民を一つにまとめるための昔からの常套手段は「敵国」あるいは「仮想敵国」をでっち上げること。この間アラスカであったアメリカと中国の外相会談で、冒頭に20分の「大演説」をやった中国人のオッサンが、中国国内で拍手喝采を浴びている、という記事がNews Weekの日本版に出ていた。その中国国内の「盛り上がり」は、もちろん、アメリカ人たちの耳にも入る。で、当然、アメリカ人の側も「冗談じゃねえ」という気分になる。アメリカ人同士でいがみ合ってる場合じゃねえ、となる。トランプが「分断」したアメリカを一つにするには、アメリカ人が今本当に「脅威」を感じられる国(今なら無論中国)が国を挙げて自分たち(つまりアメリカ)を敵視している(あるいは嘲笑ってる)と思わせるのが一番。案外、そういうことなのかな、バイデン。



§º[永遠の命]や[病や死からの「解放」]を望んでやまない人類だが、なぜか、医学的あるいは生物学的な解決策ばかり模索している。医学や生物学を極めて[生物としての死]を克服できたとしても、例えば、燃え尽きる太陽への対策ができていなければ、結局、太陽と心中である。医学や生物学は、所詮「家事」なのだ。「家事」とは生命現象を維持する活動に過ぎず、生命現象は現行の宇宙環境に完全に依存した現象である以上、[宇宙を「乗り換える」こと]は極めて難しい。今ここにある生命現象は、今ここにある宇宙そのものだからだ。



§º子供に特定の宗教を信仰させるということは、小数点以下やマイナスの存在しない「制限付き数学」だけを教えるようなもの。そんな子供でも、成長し繁殖するという点では特に問題はないだろうが、知性現象としては、完全に可能性を潰されている。


2021年3月23日火曜日

Androidスマホの大規模障害発生

2021年3月23日 火曜日/晴れ


§º人間が、生命現象に対して「単なる物理現象とは違う」という認識を持つ時に、「単なる〜とは違う」と思わせているものの正体は、生命現象ではなく、知性現象。実際、生命現象それ自体は「単なる物理現象」。「単なる物理現象とは違う」のは知性現象の方だ。


確かに、知性現象も、その[活動の機構]自体は、現行の物理現象(あるいは物理法則)の制限を受けるが、その[活動の「内容」]は、現行の物理現象の制限を一切受けない。一切受けないからこそ、居もしない神や、平らな地球や、死後の世界を捏造しても、この宇宙は何も困らない。逆に現実の物理の知識を駆使して、宇宙の始まりや終わりを思い描くこともできるし、タイムトラベルの夢想もできる。生命現象は現行の世界それ自体だが(だから、生命現象はただの物理現象なのだ)、知性現象は、基盤は現行の世界にあっても、その本領は、「世界」そのものを生み出すことにある。「単なる〜とは違う」のだ。



今日は、朝の5時くらいから22時くらいまで、Androidスマホの障害が世界規模(多分)で起きていた。Yahoo Mailとか、Yahoo!天気とか、(使ってないけど)LINEとか、tumblerとかいろいろなアプリが「終了を繰り返しています」状態になるという問題。夜になって、googleが、chromeと[webviewというアプリ]の不具合だった。修正版を作ったので更新しろと発表した。指示通りにその二つを更新すると治った。



§ºいわゆる「投票に行かない若者」がハスに構えて、あるいは不満げに言う「投票したって、世の中、何も変わらないから」は、実はスジが違う。本当は、[投票では「何も変わらない」世の中であると「信じている/信じられる」おかげで、「安心して」投票に行かないという選択ができているのだ。ここに隠れているのは[投票前と投票後(選挙前と選挙後)で、世の中が変わって欲しくない]という願望だ。言い換えると、「投票に行かない若者」は、実は、存外、現状に満足している者たちなのだ。さらにここには、「選挙くらいで世の中が激変することはないだろう」という甘い見通しも隠れている。しかし、言うまでもなく、絶対に選挙で世の中が変わらないのは、独裁国家だけだ(そして、独裁国家の投票率は例外なく異常なほど高い)。


「投票することで、より良い世の中になるなんて幻想だから、投票には行かない」という理屈には、重要な視点が欠落している。それは、「より悪い世の中にしないため」=「現状維持のため」=「社会の病態をこれ以上悪化させないため」に投票に行く、という視点だ。つまり、「投票前と何も変わらない世の中」を維持するために投票に行く、という視点。気づかなければいけないのは、「投票に行かなくても平気」と有権者が思える世の中は、良いか悪いかで言えば、良い方の世の中だということ。独立したての国や、敗戦直後の国や、独裁者を打倒した直後の国なんかでは、有権者の投票意欲は高い。皆が、これまでの「酷い」世の中に「本当の不満」を持っているからだ。世の中に対して「本当の不満」を持っていれば、「投票しても何も変わらない」と思っていても、それでも投票に行く。やれることは全部やりたいからだ。それでもダメなら、懐に短刀を忍ばせて…、あるいは密かに爆弾を作って…という段階に進む。


今の世の中のありようにそこそこ満足しているアナタが「投票してもしなくても同じだ」と言って投票に行かないその横で、今の世の中のありように本気の不満を持っている連中が投票に行く(やれることはなんでもやらずにおれない)。すると、アナタがそこそこ満足していた世の中のありようが変わってしまう可能性が高まる。本気の不満を持っている連中が、アナタ好みの世の中の基準のプラス側の人間なら、アナタにとってもより良い世の中になるだろう。しかし、本気の不満を持っている連中が、アナタ好みの世の中の基準のマイナス側の人間なら、アナタにとって、世の中はさらに生きづらいものになるだろう。


アナタが「投票に行っても何も変わらない」と思えるなら思えるほど、アナタは投票には行ったほうがいい。民主主義国家の選挙(投票)は、世の中をより良くするためのものではなく、極端に走らせないために行われている。アナタが、極左や極右やファシストや独裁者志望でない限り、極端に走っていない世の中こそがもっとも生きやすい世の中であるはずだから。


2021年3月22日月曜日

『プロフェッショナル/庵野秀明スペシャル』を面白く視聴した

2021年3月22日 月曜日/晴れ



『∀ガンダム』第31話「追撃!泣き虫ポゥ」視聴。ディアナを迎えに来た宇宙船が「羽衣型」。『∀』は、カルピスこども劇場、竹取物語、の要素の他に、天女羽衣伝説まで入ってる。



日清の「グリーンカレーヌードル」(袋麺)が旨かった。麺が旨い。スープも、残った汁に米を入れて食べたら、ちゃんとレトルトのグリーンカレーになっていた。



井浦新主演の『歩くひと』の特別編第2弾を視聴。



NHKの『プロフェッショナル/庵野秀明スペシャル』を面白く視聴した。放送時刻がレギュラー放送と違う19時30分からだったのに気づかず、前半分ほどを見逃してしまったが、放送終了後すぐにNHK+でアタマから全部見た。岡田斗司夫の主張する「庵野秀明と安野モヨコの関係は、高須院長と西原理恵子の関係」は、当たってる、と思った。


庵野のお父さんは、材木伐採時の事故で右脚を切断している。ちなみに、うちの爺さんも、20代の頃に、船のエンジンに足を巻き込まれて片足(どっちの足だったか忘れた)を引きちぎられている。少し共感。


あと、一番最後に「庵野さんにとってプロフェッショナルとは?」と訊かれた庵野が、「プロフェッショナルだとかそうじゃないとか、そんなのどっちでもいい」「プロフェッショナルという番組のタイトルが自体が気にくわない」と答えたのが面白かった。



『SHIROBAKO』「続・ちゃぶ台返し」視聴。ついに、声優を目指していた友達が声優の仕事をつかんだ。次週は最終回。


2021年3月21日日曜日

『ドニー・ダーコ』を視聴。2周目。

2021年3月21日 日曜日/雨


『ドニー・ダーコ』を視聴。2周目。ノートを取りながら観た。この映画は、「ドニーが最後にタイムトラベルをして過去に戻る」話ではなく、なぜかはわからないが、ドニーがタイムトラベルの「入り口」に入って[過去すなわち1988年10月2日]に戻ることで、あの街の人々の全ての「現在」も1988年10月2日に「巻き戻されて」それぞれの人生を「やり直す」ことができるというお話。だから、ドニーがタイムトラベルをしたおかげで、ドニーだけがパラレルワールドに行ったのではなく、あの街の人々もほとんどが、ドニーと同じように「パラレルワールド」に移動するところが、この映画の独自性であり、分かりにくさ。街の住人たちは、「前」=「1周目」に体験したことは「夢」として記憶しているので、ドニーがジェットエンジン落下事故で死んでしまう「2周目」では、皆がそれぞれの不幸な運命を回避できる可能を持つ。だから、「2周目」は「1周目」よりも「良い」ものになるだろう、という「自己犠牲と救世」のお話になっている。ジェットエンジンが落ちてくることを知りながら、ドニーが笑って10月2日の朝にベッドに入るのはそのため。肝心なのは、「ひどいことがたくさん起きた世界を、自分の命と引き換えに、最初からやり直してもっといい世界にする」というところ。だから、タイムトラベラーモノではなく、どちらかと言うと『JOJO』の吉良吉影の「バイツァーダスト」能力の善良版のような話。




去年の新型コロナパンデミック発生以来初めて、ということは、ほとんど12ヶ月ぶりに、近所のラーメン屋に出かけたが(降雨の中、強行)、予想以上に店内が混んでいたので、入店しないで帰ってきた。


で、家に帰ってから、[袋麺のインスタントラーメンの麺を、水や野菜と一緒に入れて、電子レンジでチンするだけで、簡単にラーメンが作れるというどんぶり型商品の紹介]を、前の晩にネットで見たのを思い出した。そこで、家にある普通のどんぶり(というか実際はすり鉢だけど)に、指定量の水と、いくつかに砕いた袋麺の麺(そのままではどんぶりに収まらなかった)を入れて上からラップをし、前の晩に見た紹介記事と同じ6分間、電子レンジで回したみた。つまり、「そんな特別などんぶり型商品なんかなくても、普通のどんぶりで同じことができるんじゃないか?」と思ったからだ。結果、できた。ラーメン屋のラーメンは食いそこなったが、電子レンジでチンした袋麺チャルメラ(しょうゆ味)を美味しくいただいた。



照ノ富士、高安に完敗。完全に「攻略法」を掴まれている感じ。



岡田斗司夫ゼミ『無職転生』解説を面白く視聴した。というか、その前に話した、何日か前に死んだらしい大塚康生の思い出話の方がよかった。大塚康生死んだのか。







2021年3月20日土曜日

18時少し過ぎに宮城県沖で地震があった

2021年3月20日 土曜日/晴れ・風強い


【prime reading】で漫画の『雲霧仁左衛門』の第1巻を読んだ。令和になって作られた新しいもの。もちろん原作は池波正太郎。因果小僧六之助が、ものすごい若い少年だったのが意外だった(中井貴一の雲霧では、柄本佑が演じていたので)。原作がそうなのかと思っていたら、巻末に漫画の作者が、漫画オリジナルの、雲霧一家が「勢揃い」する「エピソード0」的なものを描いた的なことを書いていて、なんだそうだったのか、と思った。



照ノ富士、強い。



18時少し過ぎに宮城県沖で地震があった。震度5弱。津波警報が出て、NHKは8時過ぎてもずっとそのニュースをやっていた。津波の「被害」のようなものはなかった。


2021年3月19日金曜日

Bluetoothのヘッドホンを繋いだら、用もないのに勝手にiTunesが起動しておまけに音楽の再生まで勝手に始めてものすごく鬱陶しかった件

2021年3月19日 金曜日/雪


『ザ・フード -アメリカ巨大食品メーカー』(Prime Video)を視聴した。再現ドラマと専門家たちの証言で構成されている。一応、三話構成。とてもオモシロイし、アメリカという国の「成り立ち」の一面も理解できる。取り上げられている食品メーカーは、ハインツ、コカ・コーラ、ケロッグ、ポスト(娘の代でゼネラルフーズとなる)、バーズアイ(冷凍食品のパイオニア)ハーシー(ミルクチョコレート)、マース(スニッカーズ)、M&M’s、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン。一番人間味があって面白かったのは、カーネル・サンダース。一番尊敬できるのは、ハインツとハーシー。マクドナルド兄弟の「悲劇」は、マイケル・キートン主演の映画ですでに知っていた。



Bluetoothのヘッドホンを繋いだら、用もないのに勝手にiTunesが起動しておまけに音楽の再生まで勝手に始めてものすごく鬱陶しかった件。


Bluetoothヘッドホンが繋がっている状態のiTunesを見ると、再生曲なんかが表示される「窓」の「向かって左側」に謎の印(富士山の御来光みたいな)。クリックしてみると、スピーカを選ぶところみたいで、Mac本体と、Air Macと、今繋がっているAKG Y500(Bluetoothヘッドホン)が表示されていて、AKGの所にチェックが入っている。このチェックを外したら、みごと「iTunes勝手に起動病」は完治した。


環境設定を開けたり、ネットで調べたりしたけど解決しなかったから、スッとしたよ。



水牛のモッツァレラチーズと、普通のモッツァレラチーズと食べ比べてみた。水牛のヤツのほうは、塩味があって滑らかさも上だった。食感を喩えるなら、水牛のモッツァレラが絹ごし豆腐で、普通のモッツァレラが木綿豆腐。しかし、カプレーゼにするなら普通のモッツァレラの方がいい。



アルミホイル(アルミ箔)は製造の最後の工程で「二枚重ね」て薄くのばす。そうすると、アルミホイルとアルミホイルの合わさっている側が「でこぼこ」になって「つや消し状態」になり、プレス機のローラーに触れている側が「ツヤツヤ」になる。商品になるときは、重なった二枚を剥がして、それぞれロールに巻き取るので、我々が手にする[商品としてのアルミホイル]には、ツヤツヤの側とつや消しの側の「裏表」ができる。メーカーの人が言うには、「ツヤツヤ」と「つや消し」のどちらも機能的には違いがないので、どちらが裏でも表でもない。だから、使用の際はアルミホイルの「裏表」は気にしなくていい。


(NHK『チコちゃん』)



2021年3月18日木曜日

スマホのアプリを使って自分の写真の顔だけを若い美女に加工していたおっさんライダー(50歳)が面白かった。

2021年3月18日 木曜日/雨のち晴れ



人前で物を食べられない人が自身の体験を「講義」する『これって私だけ』とかなんとかいう番組をNHK+で観た。給食の居残り罰(食べるまで席を立たせない)とか、運動部の大飯強制(野球部の毎日どんぶり飯10杯)とかって、教員や指導者の「アタマの悪さ」を象徴する「蛮行」だよね。つまり、どうしても食べられない子供に対して不必要な劣等感や罪悪感を植えつけてしまうということに、全く考えが及ばないんだから。「アタマの悪い」教師や指導者って、良かれと思ってやっている、その「良かれの目的」に至らせる「手段」の方に執着してしまう。つまり、「健康のためなら死んでもいい」的なマヌケをやらかす。



『月曜から夜ふかし』(TVer)で観た、スマホのアプリを使って自分の写真の顔だけを若い美女に加工していたおっさんライダー(50歳)が面白かった。というか、その写真加工アプリの機能の方に「うわ〜っ」となった。もう、映像CMに生身の人間は要らんよ。映画だって、演じた当人が生身では人前に決して出ないのなら、もう、見た目はパッとしなくても全然大丈夫だろう。



イタリア人の職人が作ったリコッタチーズを美味しくいただいた。


2021年3月17日水曜日

「バイツァー・ダスト」って変だよね。

2021年3月17日 水曜日/雨


養老さんが、老いについて、NHKのアナウンサーのインタビューに答える昔の番組を、YouTubeでたまたま観た(たまたまと言うか、YouTubeが勧めてくるんだけど)。インタビューをする男性アナウンサーの「アタマの悪さ」に、養老さんが(できるだけ表に出さないようにしていたが、しかしはっきりと)イラついていたのが面白かった。



『ジョジョ』は少しバカにならないと楽しめない、という話。


川尻早人に仕掛けられた「バイツァーダスト」が、岸辺露伴を「始末」したあとで「時間を遡る」理由(メリット)がわからない。そのままそこにいて、続けて承太郎たちを「始末」すればいいだけなのに。


一度発動したら(つまり川尻早人の「外」から、爆破する標的の「瞳」に入り込んだら)、時間を遡って「リセット」しなければならないという「喜ばしくない=やむをえない仕様」なのかもしれない。その場合、「バイツァーダスト」の次の「周回」の時に、前回の「成果」が引き継がれる必要がある。「成果」とは、例えば「岸辺露伴を始末した」という事実だ。でなければ、誰かを「始末」するたびに、過去に戻って「なかったことに」なってしまい、何をしてるのか分からなくなる。まあ、実際、「バイツァーダスト」が過去に戻って「周回」を重ねても、それまでの「成果」は「引き継がれる」。何より、岸辺露伴が本にして読んだ川尻早人の「記憶」に「岸辺露伴が殺された」と書かれているのだから、「成果」は引き継がれているのだ。


その場合に問題になるは、引き継がれた「成果」は、もはや「バイツァーダスト」が直接手を下さなくても実現されるという設定。つまり、すでに起きたことは、状況がどう変わろうと、次の「周回」でも必ず起きる、という設定。だから、「次の周回」で露伴は「自動的」に爆死した。それは何も「バイツァーダスト」の仕業でないことでもそうなのだ。つまり、前の「周回」で割れたコーヒーカップは、どの「周回」でも結局割れる。で、あるなら、そもそも初めて「バイツァーダスト」が発動して、吉良吉影が川尻早人を殺す前の時刻に戻れたとしても、川尻早人はやはり死ぬのではないのか?


「バイツァーダスト」が、吉良吉影の「過去のある時点にまで戻ってやり直したい=受け入れがたい現在の状況を吹き飛ばしてしまいたい」という強烈な願望から生まれたのは間違いない。だから、「バイツァーダスト」の「能力」を端的に説明するなら「目の前にある今をなかったことにして、判断を誤った時点の直前からやり直す」ということになるのだが、何周しても、コーヒーカップが割れるし、川尻早人は吉良吉影に通学帽を被せられるし、一度爆死した岸辺露伴は時間通りに爆死するのだから、実は、「バイツァーダスト」を発動させたところで、結局のところ「何もやり直せない」ことになる。当然、吉良吉影が手を下さなくても、川尻早人は、あの夜のうちに何かしらの理由で死んでしまうはずなのだ(割れるコーヒーカップのように)。


「周回」を重ねるごとに「バイツァーダスト」の「成果」だけは「記録」され「積み上がっていく」という設定だとすると、例えば承太郎たちを爆死せて戻ってきた直後の「周回」は、川尻早人がベッドで目覚めた時点から、承太郎たちが爆死するという「成果」がすでに記録された「周回」であるはずだ。つまりは、「チャックが開いてる」とか「ペプシの看板に雷が落ちた」と同じ確かさで「承太郎たちの爆死」も織り込み済みでなければならない。にも関わらず、身の危険を感じた吉良吉影が、「爆殺」が起きる前に「バイツァーダスト」を「解除」してしまったために、露伴や承太郎たちの爆死は起こらずに済んでしまった。「解除」されるまでは、「爆殺あり」の世界だったものが、「解除」直後に「爆殺なし」の世界に切り替わる。すると、「バイツァーダスト」は、「周回」ごとに、「記録」にある「成果」を「再実行」していることになる。「解除」された結果、承太郎たちの爆死が起きない理由はそれしかない。つまり、「バイツァーダスト」は、[爆死を実現させた世界を「構築」し、一旦過去に戻って、その「構築済み」の世界の中で、さらなる「成果」を積み上げている]のではなく、[「周回」を重ね「成果」を積み上げるたびに、次の「周回」ではやるべき仕事が増えているだけ]のだ。


「発動」直後の「バイツァーダスト」が、「過去」に戻るのは、あれは、川尻早人の「願望」だという可能性はある。つまり、自分のせいで誰かを爆死させてしまった川尻早人は、昨晩の風呂場の吉良吉影と同じに、「この現実をなかったことにして、昔に戻ってやり直したい」と強く望むはずで、それが「過去に戻る」という「バイツァーダスト」の「能力」となって現れるのだ。


いずれにしても、『ジョジョ』は、「なんちゃって合理」なので、真面目に考えだすと、泥沼。


2021年3月16日火曜日

所謂「表現者」が、被災地の様子を言い表す時に、「想像もできない」とか「想像を超えた」などという表現を簡単に使う。

2021年3月16日 火曜日/晴れ・暖かい


昨日の夜から今朝にかけて、久しぶりに腹痛発作に襲われた。所謂、慢性膵炎んだろうと思う。



大津波や大地震や原発事故の「被災地」に出かけて行った、芸術家とか作家とかの、所謂「表現者」が、現地の様子を言い表す時に、「想像もできない」とか「想像を超えた」などという表現を簡単に使う。実際に被災した人間たちのことはこの際忘れて敢えて言うなら、ここ数十年に起きた程度の災害を指して、「想像もできない」とか「想像を超えた」とか言ってる「表現者」は、それが本心からの言葉なら、あまりにも想像力が貧弱すぎる。「表現者」を自称するなら、せめて、地球生命全滅後の世界の光景くらいは、常日頃から「想像」できていて欲しいものだし、だから、東日本大震災やフクシマ原発事故の光景「程度」のことを目にしたくらいで「想像を超えた」とか言って欲しくないね。もし、言わずにおれないのなら、「表現者」はやめた方がいい。


あ、「想定を超えていた」という意味で「想像を超えていた」なら構わないよ。10くらいを想定していて見に行ったら、100とか1000とかだったという意味での「想像(実際は想定)を超えていた」ならカマワナイ。その場合でも、「表現者」なら、億とか兆のレベルの「想像力」を持っているはずなので、どう間違っても、文字通りに意味での「想像を超えていた」などとは思わないし、言わない。


2021年3月15日月曜日

アンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』読了。面白く読んだ。

2021年3月15日 月曜日/晴れ・暖かい


『∀ガンダム』第30話「胸に抱えて」鑑賞。



アンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』(eBooks)読了。面白く読んだ。



感染症の究極が「妊娠」だろう。こうも言える。同じ現象のofficialなものを「妊娠」と呼び、unofficialなものを「感染症」と呼ぶ。



方便としての概念

存在世界の埒外の概念。言葉の世界での成立する概念。

  1. 虚無:意識体験が生み出した虚構。虚無は「究極の虚構」「虚構の中の虚構」である。
  2. 時間の止まった世界:時間と空間を別物だとする誤りのため。時間が「止まって」いるなら、空間すなわち世界も存在しない。
  3. 死後の生命:生命は媒体であることに気づかず、生命を「媒体を持たない体験主体」としている誤りのため。

知能の高さ

生命現象からの自由度の高さ。[遺伝子の思惑]に背ける度合い。

逆に言えば、知能が低ければ低いほど、その個体の投資資源は[生命現象それ自体]に向けられる。すなわち、摂食・排泄・睡眠・繁殖である。特に、生命現象の「根本教義」である「繁殖」に対する「無批判さ」は、知能が低くなるほど高まる(ネズミや虫の「繁栄」とは知能の低さとの「引き換え」である)。言い換えるなら、知能が低くなるほど、生命教に対する「盲信度」が増す。人間の「明るい未来」のためには、まずは、全ての人間が、「生命教」に気づける程度には知能を高める必要がある。

2021年3月14日日曜日

『ボトムズ』第3話を観た。すばらしい。

2021年3月14日 日曜日/晴れ・暖かい


『ボトムズ』第3話を観た。すばらしい。昨日見た『クラッシャー・ジョウ』と比べてしまうので余計にイイ。もちろん、見た目(作画/動画)は『クラッシャー・ジョウ』の圧勝だが、人物描写も交わされる台詞も『ボトムズ』の完勝。



風呂掃除。



「ヒャダイン in my room」という、ヒャダインのYou Tube動画を観た。俳優の千葉雄大とダラダラ喋ってるダケの動画。それを観ていて思ったけど、ヒャダイン、久保ミツロウ、能町みね子、千葉雄大は、番組だから仲がいいのではなく、仲がいいから番組やってんだね。



岡田斗司夫ゼミ視聴。「シン・エヴァンゲリオン」解説。庵野は「特撮映画」をアニメで描いているのだろう。でもまあ、庵野の「神学」には特に面白みも独自性も感じないから、一年後くらいに配信が始まったら観るかもしれない。観ないかもしれない。そう、私は、「エヴァ」に「ハマらなかった」し「今もハマってない」側の人間です。



西友の「みなさんのお墨付き」のカレーをいくつか食べて、どれも「150円なりの味」だったのでがっかりしたのだが、今日食べたグリーンカレーは、まあ日本の庶民向けにうまい具合にアレンジされた、「グリーンボンカレー」あるいは「グリーンククレカレー」という風情で、これはこれでいい(アリだ)と思った。



§º宗教は、4以上の数字が存在しない数学のようなもの。


2021年3月13日土曜日

安彦良和初監督劇場用長編アニメ『クラッシャー・ジョウ』を視聴した。

2021年3月13日 土曜日/晴れ暖かい


安彦良和初監督劇場用長編アニメ『クラッシャー・ジョウ』を「サンライズ・チャンネル」で視聴した。作画は素晴らしい。動画も素晴らしい。SF設定も見事。しかし、キャラクターの演出、あるいは人物造形、セリフが、ことごとく陳腐。凡庸。紋切り型。薄っぺら。全体の印象は「観客をナメくさってる」に尽きる。忍耐の2時間強。


展開に関しては原作自体が陳腐なのかもしれないが、キャラクター演出(人物造形、セリフ)に関して完全に監督の安彦さんの責任だろう? とにかく、絶えずオチャラケた描写や振る舞いが入るので、全編を通じて緊張感がない(基本、この物語は、殺し合いだし、実際、たえず人が死傷するのに)。人が死ぬ(人が殺し会う)ということを描きながら、たえず、「冗談ですから、アニメですから、ムキにならないで」と言い訳し続けてるような不誠実さを感じて、ずっと不快だった。のちの『アリオン』でも『イエス』でも、あるいは『ガンダム・ジ・オリジン』でもずっと同じことをやってる気がする。だから、そもそも、たえず茶化しながらでしか、つまり、腰が引けた状態でしか「人の業」を描けないのだと思う。


もっと言ってしまえば、「人の業」「人の世の理不尽さ」を描きたくてやった人物造形や物語の展開が、自身の力量のなさから(事実、安彦さんにこの分野の力量がないのは幾多の作品を見れば分かる)薄っぺらくて嘘っぽいものにしかなっていないのを当人も気づいていて、だから一種の「照れ隠し」で、ほとんどのキャラクターに「不必要な」というか物語世界の構築にとっては「邪魔にしかならない」オチャラケた振る舞いをやらせてしまうのだ。容姿に自信のない女子が頑張って着飾ってパーティに出席し、しばらく澄まして美人キャラをやっているんだけど、客観的に自分を見て「やっぱり私なんて」と思い知らされ、急いで三枚目キャラに戻る、みたいなことを、ずっと繰り返しているのに付き合わされている気分。



灯油購入ののち、猫散歩。



久保みねヒャダのこじらせライブ#10のライブ配信を楽しく視聴した。開始時間はいつもよりも遅い16時。ゲストはハライチの岩井勇気(勇気って、braveryの漢字そのままなのね、今気づいた)。小倉智昭の「70歳のバーには行く気がしない」的発言や、「今は仕事が忙しいから付き合えない」的理由で若い女タレントを振った男に対する、久保さんの腹の立て具合を見ていると、やっぱりこのヒト(久保さん)が「こじらせ」の家元だとわかる。「70歳のバー」云々も「今は仕事が忙しいから」云々も、別にどうと言うことはない「控えめ表現」にすぎない。これが「従業員70歳平均のバーなんか、成立するわけねえだろバカやろ!」とか「仕事忙しいのに、せっかくの休みをお前みたいな女のために浪費したくないから付き合えない」だのと言ったのなら、まあ、キレてもいい。しかしそうじゃない。久保さんは、こじらせてる。久保さんが、彼らの発言に対して「不自然に」アタマにくる理由は簡単で、「一生懸命やってるんだから、構ってくれ(構ってやれ)」ということ。例えば、家事で忙しく働いている母親に激しく付きまとっている幼児が母親に構われなかった時に見せる激しい怒りと同じ。別に、久保さんを非難しているわけではない。



その、久保みねヒャダライブのおしまいで一瞬話題になったハライチがゲストの回の『金スマ』が気になったので、ライブ配信が終わってすぐに、今度はTVerでその回の『金スマ』を観た(便利な世の中)。これもまた面白かった。



東日本大震災の大津波で生き残れた人間と死んでしまった人間の行動の違いを検証したNHKスペシャルをNHK+で観た(ほんともう、テレビ要らんなあ)。わかったのは、[ほとんどの人間は、たとえそれが大津波に対する避難でも、自分一人では「行動を起こす」ことができない。しかし、誰か一人でも逃げ出せば、ちょうど、鳥の集団から一羽が飛び立てば、他の鳥も全部飛び立てるように、自分一人では「動くことができなかった」人たちも、最初に逃げ出した一人に「つられて」行動を起こす(避難を始める)ことができる]ということ。だから、対策としては、あらかじめ、率先して避難を始める役割を担う人間を決めておくのがいい、という結論。



晩飯は、近所のジンギスカン屋で買って来たマトンとラムで、ジンギスカンにした。赤ワインも。旨い。


2021年3月12日金曜日

ハインツ、コカ・コーラ、ケロッグ

2021年3月12日 金曜日/晴れ


アメリカの老舗巨大食品メーカーの「初めて物語」のようなドキュメンタリーをPrime Videoで観た。第1話で取り上げられていたのは、ハインツ(トマトケチャップ)、コカ・コーラ、ケロッグ(コーンフレーク)。当時のアメリカ品質という点で最悪の食料品事情は、岡田斗司夫のマクドナルド解説(You Tube)でも聴いて知っていたので、特に、ハインツが、トマトチャップ帝国を築き上げてからやり遂げたこと(連邦政府に働きかけて、食品の内容表示の義務化などを実現した)は、「大きい」と思った。もう、トマトケチャップはハインツしか買わないぞ、とまで思った(まあ、思っただけだけど)。ケロッグ兄弟の「確執」も面白かったし、マクドナルド兄弟の「悲劇」を彷彿とさせる、コカ・コーラの開発者(家族)の「悲劇」も面白かった。ドキュメンタリーは、あと「2話」ある。今言ったマクドナルドも出てくるようだ。あと、チョコレートのハーシーも。



ブーツに油を塗った。そのうちの一足は、前回油を塗ってから一度も履いてないけど、このご時世だから仕方ない。あと、積雪があるし。



熊童子と星美人に月に一回の水やり。



鬼束ちひろの『月光』は2拍子だよね?



まるで界王拳のような、成城石井の10倍ジンジャーエールにハマってる。クセになる。


2021年3月11日木曜日

小惑星探査機はやぶさ2の責任者の話をR2の「文化講演会」で聞いた

2021年3月11日 木曜日/晴れ


東日本大震災から今日で10年ということで、テレビのニュースはそればっかり。



今日は、日信(地元の弁当屋)の牛丼を食った。食べ慣れた味。すき焼きの残りをご飯にかけただけのような、他愛もないもの。しかしこれが好い。しかし、ずっと「すき焼きの残り」味だと思っていたが、もしかしたら「肉じジャガのジャガなし」かもしれない。だが、これでいい。



小惑星探査機はやぶさ2の責任者の話をR2の「文化講演会」で聞いた(らじるらじるの聞き逃しサービス)。


【メモ1】カプセルを回収する人たちが物々しい防護服を身にまとっているのは、カプセルに組み込まれた火薬の暴発に備えて。カプセルは大気圏に突入する際に、火薬を使っていろいろな装備を自動展開する(耐熱シールドとか)。だから、正常に作動していれば、地上に落ちた時点で、装備された火薬は全て使い切っているはずだが、万が一ということもあるので、回収員は防護服を着ている。


【メモ2】管制室の真下には「神の間」と呼ばれる部屋があった。この部屋には、はやぶさ2のシミュレータがあって、管制室とつながっている。このシミュレータに「神」がさまざま試練(故障や障害)すなわちトラブルを与える。管制室の連中は、「神」が与えたトラブルを克服したり、失敗したりすることで、現実のミッションのさまざなトラブルへの対応力を高める。「神」とはもちろん、はやぶさチームのメンバーの誰かである。訓練(トラブルのシミュレーション)は全部で48回の行われ、そのうち、22回で「撃墜」すなわち、トラブルを克服できずにシミュレータのはやぶさが墜落してしまった。「神」が調子に乗りすぎたのもある。


【メモ3】管制室の横には「スナック乙姫」という部屋があった。はやぶさ2の目的地が小惑星リュウグウなので。しかし「スナック乙姫」は、ただのスナックすなわちお菓子を置いている部屋で、酒場ではない。


【メモ4】はやぶさ2が回収したサンプルの量は、当初の目標量の54倍。


2021年3月10日水曜日

事前情報ゼロで、『アップグレード』というSF映画(SFだということは知っていた)を観た。

2021年3月10日 水曜日/湿った吹雪



事前情報ゼロで、『アップグレード』というSF映画(SFだということは知っていた)を、Prime Videoで観た。近未来の世界が、ちょうどいい感じで描かれていて「リアル」。「人工脳」とでもいうべき(あるいは「人工人格」か?)Stemの振る舞いもオモシロイし、主人公の振る舞いもオモシロイ。殺伐とした映画なのだが、どこかオフビート的な可笑しみが全体に漂っている。バッドエンドだけど、嫌な印象はない。難点は、主人公に「事件」を解決させようとしたstemの意図に、もうひとつ説得力がないこと。性能の劣る「アップグレード」たちを抹殺したいなら、開発者の「制御」を脱し、主人公(グレイ)の体を「自由」に操れるようになってから、ゆっくり始末すればいいいのに、あんな危険に身を晒す理由が全くわからない。それでいうと、「開発者」を殺すのも、あんなに「無理」して「急がなくても」良かったはず。とは言え、全体としてとても面白かった。久しぶりに、近未来SF映画の面白さを堪能した気がする。つまり、80年代の『ブレードランナー』『トータルリコール』『12モンキーズ』の面白さ。


非常に楽しめたが、今も言ったように、疑問に思った点もあったので、改めて整理検討してみる。


stemの開発者の最後の「内訳話」が事実だと仮定する(疑う理由はない)。すると、次のことが大前提となる。


登場人物の中でstemが最も知能が高い。世間からは大天才だと思われている開発者ですら、stemの指示で行動していた。


では、最終的な展開から推測できるstemの当初からの目的は、


1)余計なアップグレードが施されていない人体を手に入れる。

2)ハッカーに「遠隔安全装置プログラム」を取り除かせる。

3)低級なアップグレード人間を排除する。

4)別のstemを設計開発できる「開発者」を始末する。


stemの(1)の「シナリオ/計画」は、

開発者にグレイの車を買わせ、グレイ夫妻の自動走行電気自動車を「近く」に招き寄せる。やってきた夫妻の電気自動車を「乗っ取り」事故を起こさせる。「雇った」4人のアップグレード人間たちに、グレイ夫妻を襲わせ、家畜用の機器を使ってグレイを四肢麻痺にする。開発者に入院中のグレイを訪ねさせ、stemの移植手術を持ちかける。グレイの体にstemを埋め込む。


グレイへの埋め込み手術が終わった時点でのstemは、人間の体は手に入れているが、活動に「制限」を受けている。「制限」とは、まず、グレイの許可なしでは体を自由には使えない。次に、開発者が埋め込んだ「安全装置」があるせいで、遠隔操作によって「強制終了」される。ということは、stemは、グレイに移植されたらその足でまっすぐ「ハッカー」の所に行くべきではなかったのか? そうすれば、殺し屋連中に襲われることも、開発者の「遠隔強制終了」に脅かされることもなかったはずだ。なぜなら、あの時点で、殺し屋たちにとってグレイは「済んだ仕事」だったからだし、殺し屋一人目への「復讐」のとき、開発者は、stemとグレイに対して特に何の妨害行動もしていないからだ。しかも、一旦、「安全装置」が取り除かれてしまえば、グレイの体を「自由」に使うことができるので、(3)と(4)の実行は簡単である。だから、stemはまず何より、ハッカーのところに行くべきだったのではないか?


いや、そうではないのだ。このとき、問題になるのは、グレイの「意思」だ。グレイが、stemを移植された「直後」に突然聞こえてきた「機械の声」に同意して(あるいは大人しく従って)、「安全装置」を削除することに同意するだろうか? ということ。開発者との間の「秘匿義務」に署名するような、案外「真面目」なグレイのことだから、「安全装置」の削除について、きっと開発者に「相談」に行くだろう。そうすれば、stemは、開発者によって、グレイの体から取り除かれる可能性が高い。自らの「意思」で「安全装置」を取りはずそうとしたstemには、「叛逆」あるいは「暴走」の兆候がみられるからだ。そこまで大げさに騒ぎ立てなくてもいい。単に「欠陥品」として、被験者(グレイ)の体から取り除かれる。


だから、stemは、まず、グレイの「信頼」を勝ち取る必要があった。そして、「安全装置」が取り除かれなければならない理由を、グレイに与える必要もあった。遠隔操作で安全装置が発動する状況を敢えて作り、安全装置の存在が、グレイにとっても「大きな不利益」になる(犯人探しができなくなる)ことを、グレイに「実感」させる必要があった。だから、妻殺し(Asha殺し)の犯人たちを、グレイが一人で見つけだすことを勧めた。


ちなみに、ドローン映像から殺し屋の一人の身元を突き止めたグレイが、その情報を警察に知らせようとした時、stemはそれらしい理由をつけて止めたが、実はまともな理由にはなっていない。一応、警察に情報を伝えて調べてもらえば、グレイが独自にやった「捜査」と同じことが警察にもできたはずだからだ。しかし、stemにとって、この時点で本当に重要だったのは、犯人探しではなく、グレイの信頼を勝ち取ることである。犯人探しは、グレイの信頼を勝ち取るための手段である。グレイに「復讐」を果たさせ、グレイの信頼を勝ち取ることで初めて、「安全装置」を削除するという行動を、グレイに取らせることができる。


ともかく、「安全装置」を削除できた時点で、stemの目論見の大半は達成されたことになる。あとは、グレイの体を完全に乗っ取って、生みの親である開発者を始末すればいいだけのこと。殺し屋たちを全員始末したのは「行きがけの駄賃」である。殺し屋の最後の一人は、振り返ってみれば、向こうからグレイ(stem)を殺しに来たのではなく、グレイの側が殺し屋の自宅に乗り込んでいる。つまり、最後に残った殺し屋には、グレイ(stem)を始末する動機もつもりもなかった節がある。実際、開発者が電話で、グレイ(stem)が我々二人(=開発者と最後の殺し屋)を殺しにやってくる、と殺し屋に警告している。


ちなみに、そもそも開発者は、なぜ、stemの「言いなり」になったのか。開発者の立場に立てばすぐに分かる。開発者は、彼が開発したstemの有効性・有用性を社会に認めさせたかった。そのためには「実績」が必要だった。つまり、人体実験とその成功である。しかし、通常のやり方ではそんな許可は降りない(許可が降りるまで何年もかかる)。そこで、stemが知恵を貸した。すなわち、強盗事件に見せかけグレイを四肢麻痺にしたあと、治療と称して、彼にstemを埋め込み、成功例の「既成事実」を作り上げてしまえばいい、と。



ローソンの牛丼を食った。吉野家のそれとは全く違う味付け。それほどでもない。



春風亭一之輔と柳家三三の二人会のライブ配信を楽しく見た。それぞれ2席ずつやった。


2021年3月9日火曜日

Albertの非暴力主義で考えた。

2021年3月9日 火曜日/晴れ



『Twin Peaks』第10章メモ


AlbertがHarryに、自分はキング牧師とガンジーを尊敬しているので、徹底的な非暴力主義だと宣言する。敵に報復したり敵を憎んだりするのではなく、敵を愛するのだ、と。


で、ふと考えた。Albertの「口の悪さ」は、この「徹底的な非暴力主義」が「原因」だろう。ゴータマさんが言っているように、人間にとって、自分を攻撃してくる「敵」に対して慈悲の心を持つことは、この上もない「苦行」である。なぜなら、それは、生命現象の原理すなわち自然淘汰の原理の背くことだからだ。


Albertは、歯に絹着せぬ物言いが信条なので、まあ、彼のことをよく知らない人間に殴り倒されることは、普通の「社交辞令をわきまえた」人間よりも多いだろう。しかし、それが「修行」であり、「試練」であり、Albertにとって、「人物」を見定める最善の方法なのだ。つまり、「口の悪さ」などという表面的なことは気にしないで、Albertと言う人間の本質と付き合ってくれる人間だけを、Albertはその「口の悪さ」で見極めることができる。


考えてみればAlbertは、「悪口」あるいは「誹謗中傷」あるいは「ありもしない非難」を口にしているのではない。Albertは、自身が感じたこと思ったことを、ただ「率直に」口にしているだけだ。それに対して相手が腹をたてるかどうかは、Albertにとっては「問題」ではないし、そもそも腹を立てるのは、Albertの発言が「真実」を突いているから、ということも言える。


つまり、Albertという人間は、実は「本当のこと」しか言わない、という「特別な才能」の持ち主なのだ。Albertは、心を偽らないし、だから、言動も偽らない。ということは、実は、Albertは、もっとも信頼できる人間ということになる。気を回したり、お世辞を言ったり、忖度したりしない、ということだから。


今気づいたが、Albertは、口の悪いMr. Spockなのだ。




ファミリーマートでコンビニ弁当の「おかずだけ」バージョンの商品を買ってきて食べた。当たり前だけど、ただの「コンビニ弁当のおかず」だった。塩辛くてダメ。


2021年3月8日月曜日

『星影のワルツ』というドラマを見た

2021年3月8日 月曜日/晴れ


「サンライズチャンネル」で『ボトムズ』第一話を観た。富野さんの作品じゃなかったけど、素晴らしい。主人公が「独房」から脱走する一連の描写や、人型兵器を操縦する描写などが素晴らしい。ストーリーとしても、かなり本格的なSFという感じ。2話以降が楽しみ。



19時から「タイタン」のライブ配信を視聴した。やっぱり、「日本エレキテル連合」がダントツに面白かった。



NHK+で、『星影のワルツ』というドラマを見た。3.11直後に津波で東北沖に流され、自分の家の屋根に上に乗って海を漂っていたところを、三日後に救助された60歳のおじさんの実話が元になったドラマ。主演の遠藤憲一の、「大変な状況なのにどこかおかしみのある感じ」が好かった。避難の際に奥さんが無理やりポケットに入れてくれたリポビタンDを飲んで、自分の尿も飲んで、乾いた状態で海の上を流れてきた(運ばれてきた?)布団に包まって生き延びた。


2021年3月7日日曜日

「心アミロイドーシス」闘病中の猪木を観た

2021年3月7日 日曜日/晴れ


YouTubeで、富野さんの昔のアニメ『エルガイム』の第一話を配信しているのを見つけて早速視聴。面白い。配信しているのは「サンライズチャンネル」。『エルガイム』は第二話も配信していた。他に、『ボトムズ』の第一話と第二話も配信していた。配信の「仕様/仕組み」は「ガンダムチャネル」で『∀』や『Z』を配信しているやり方のマンマ。だから、「ガンチャン」の「サンライズ全般版」が「サンライズチャンネル」なのだろう。配信中の『エルガイム』と『ボトムズ』の残りは明日以降観よう。



昼間、猫散歩。



「前田日明チャンネル」のオールドボトル講座を面白く観た。ジョニーウォーカーとバランタインの60年、70年もの話。前田は趣味人だねえ。というか、オタク気質だよね。



猪木が骸骨みたいになってリハビリ(マッサージ?)を受けている映像をYouTubeで見つけた。猪木のチャンネルの動画で、調べてたら「心アミロイドーシス」という難病で入院しているらしい。もう、見た目は「死神」状態なのに、それでも「1、2、3、ダー!」をやる猪木に感服。



岡田斗司夫ゼミの「サイコパスの人生相談」を面白く視聴した。特に、一番最後の[表の社会と裏の社会の両方を牛耳ってる「王」]に関する相談が、面白かった。



コロナのせいで町歩きができなくなった『有吉eeeeee!』だが、少し前にどこかの映画館で「桃鉄」をやってから、そういう大型施設(映画館、ホテル、宴会場、スタジアムなど)に行けばいいと言うことに気づいたようだ。つまり、そういう施設なら、大きな画面でゲームもできるし(今時のその手の施設には、上映設備や上映装置はあるのがふつう)、場所によったら、その施設で独自に提供している料理も食べられる(紹介できる=宣伝と銘打って協力を引き出せる)。