2020年10月27日 火曜日/曇り
『未来少年コナン』第25話「インダストリアの最期」視聴メモ:
この回で、レプカがギガントオタクなのが分かる。何年も何年もギガントについて調べて、機能も性能も操作方法も何もかも知り尽くしている。エンジンや垂直尾翼の切り離し方や、脱出カプセルの存在など。他の乗組員は、基本的なことしか知らない。さらに、ダイスに尾翼の砲塔から攻撃されて思わず「俺のギガントに」と口走ってしまう。ギガントオタクである。
博士たちがインダストリアに残ったことは、ラナとラオとモンスリー以外誰も知らないのだから、船の連中がインダストリアに「さようなら」と手を振っているのは、故郷への別れ?
あと、コナンが最後の最後にレプカを助けようとした(脱出用カプセルに引き上げようとした)のは、自分一人では脱出カプセルを操縦できないことにコナンが気づいたからなのかもしれない。
ところで、コナンは、ロケットで地球からの脱出を試みた連中(一体どういう立場の何者だったのか?科学者という感じでもなさそうだし)の子孫なので、そんな出自のコナンが、地球に「置き去り」にされたラナ(の父親)やモンスリー(そしてレプカですら)のために奮闘するのは、或る種の贖罪になっているのではないか?(無意識の、あるいは作者だけが自覚している)
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『Twin Peaks : The Return』の(16) NO KNOCK, NO DOORBELLは、様々な「目覚め=解放」が起きる回。クーパー(ダギー)、ダイアン、オードリー。そしてある意味でハッチとシャンタルの殺し屋夫婦も。
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Amazonで耳栓を買ったら、広辞苑が入るような箱で届いた。
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√「殺す存在」は、「臭い存在」や「喧しい存在」と同じ理由で、大多数から排除の対象とみなされる。だから「殺してはいけない」と言われる。ただそれだけのこと。「殺す存在」は「排除」される。無論、その排除の方法には「殺す」も含まれる。生き物である人間に対する究極の排除方法が即ち「殺す」だからだ。
ともかく、「殺す」それ自体は排除も否定もされていない。だから、コドモはその両者の区別がつかず、時にシタリ顔で「どうして殺してはいけないの?」と、マヌケな問いを発してしまう。(そもそも生き物とは殺しあうことが前提の存在である)。排除の対象となるような殺しはやるな、ということ。「世間知は必要」という話なのだ。