2020年10月31日土曜日

寿命が尽きたDyson DC12plusを近所の資源回収拠点に持って行った

 

2020年10月31日 土曜日/晴


(昨日の続き)


つまり、司ちゃんこそが「若者の未来の可能性を食い物にする既得権益を守るヤツ」なのだが、そのことを当人は全く認識できていない。これは、歴史上のあらゆる独裁者と同じで、「生き物としての幸せ」で人間の社会を考えるから、独裁者ごとにいろいろと「個人差」が出るし、その個人差が、独裁者に支配されているそれぞれの人間の「個人差」との齟齬になる。


一方、科学が目指す究極は、「生き物としての幸せ」ではなく、「知性としての幸せ」である。科学も「途中」の段階では、さも「生き物としての幸せ」を目指しているように見えるのだが、実際は、媒体としての「生き物」の様々な不具合が、知性の幸せを損なわないように工夫しているだけのこと。例えば、痛みや病気や老化や障害を取り除くのは、生き物としての幸せを追求しているように見えて、その本質は、媒体としての生き物の不具合が知性を煩わせることを避けようとする行為。


媒体としての生き物の不具合が知性を煩わせるものとして最も分かりやすい(ピンとくる)のが日々の排泄。もしも一切排泄しなくても何の問題も生じない工夫が実現したなら、知性としての人間は間違いなく誰も排泄などしなくなるし、トイレというものも存在しなくなる。知性は、そもそもソンナモノを必要としていないのだ。


さて、「生き物としての幸せ」は「生まれ、繁殖し、死ぬ」であり、生き物はこれで満足。何の問題もない。しかし「知性としての幸せ」から見ると、他はともかく、何と言っても、最後の「死ぬ」は絶対に受け入れられない。生き物としての「死ぬ」は、生き物自体の定義に含まれているものだから、いいもわるいもないアタリマエのことだが(どうせまた別の個体が生まれるのだし、生き物はそれでいいのだ)、知性にとって「死ぬ」は、ただの完全消滅でしかない。何より、知性は、そもそも死ぬ必要性も必然性もない。繰り返すが「死ぬの生きるの」は生き物の属性であり、知性の属性ではないからだ(この「属性」は「宿命」とか「呪い」とかに言い換えてもいい)。つまり、生き物の「死ぬ」と、知性の「死ぬ」は意味が違うということ。まあ、またハナシが逸れたネ。



寿命が尽きたDyson DC12plusを近所の資源回収拠点に持って行った。ありがとう、さようなら。その時たまたま見つけた食パン屋で食パンを買って帰った(2斤で800円)。