2020年7月25日 土曜日/曇り。蒸し暑い
NHKの『日本の話芸』で、『電話の散財』(林家花丸)という落語を聞いた。息子にお茶屋遊びを止められた父親が、番頭の思いつきで、電話越しの宴会をする噺で、今でいうところの「リモート飲み会」そのもの。この落語は、電話の普及が本格化した大正時代に作られたという。ちなみに無観客の大阪ホールで収録されていて、ちょっと変な凄みがあった。とは言え、志ん生なんかもラジオ放送用に、客のいないスタジオで噺をしていたんだから、別にどーということはない。
▼「お花」=お花代。「お座敷遊び」「お茶屋遊び」で舞妓や芸妓に支払う料金。『電話の散財』の中でも、電話越しのお座敷遊びと聞いて遊女が「お花はどないなります?」と訊く。
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たまたまちょっと観た『有吉ダマせたら10万円』という番組で、さま~ずの三村が自分であいだみつを風の詩を書いてきて見せ、本物(みつを作)か偽物(みむお作)かを有吉に当てさせていたが、三村臭・さま~ず臭が強過ぎて、分かり易過ぎたよ、みむお。
因みに、有吉が偽物だと言って唯一間違えた「ひとりになりたい、ひとりはさびしい」という詩は、「ひとりになりたいひとりは、さびしい」(一人になりたいと思うような一人は、さびしい)と切った方が味わい深い。ま、そもそも、あいだみつを、全然イイと思わないけど。
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「私という人間は何のために生きているのか?」という問いは、「太陽は何のために燃えているのか?」という質問と同じくらい無意味。
もう少し続けると、「人間は何のために…?」という問いを発する或る知性は、その知性それ自体が「生きている」と思い込んでいる。しかし、生きているのは人間という生命であって、それを問うている知性ではない。
そして、[生命が生きること]即ち[生命が生命であること]に意味などない。生命は、死んでいない時にのみ生命である。死んだ生命など存在しない。燃えていない炎がないのと同じだ。
或る知性が自身の「生き死に」を問題にし、自殺を考えたり、実際に首を吊ったり、手首を切ったり、錠剤をザラザラ飲みしてみたりする時、本当にドウニカシタイと思っているのは、自分の生命ではなく、自分という知性の存在である。
喩えるなら、或る人間が苦労して自殺しようとするのは、自殺願望のあるハイジャッカーがどうにかして自分の乗ってる旅客機を墜落させようと奮闘しているようなものである。