2020年7月4日 土曜日/晴。風強し
ホッキョクグマの2層になっている体毛(まあ、猫もそうだけど)のうち、外側の毛は中が空洞になっている。外気温から体温を守る仕組み。魔法瓶の原理と同じ。内側の毛は、逆に密度が高い。NHK北海道で、円山動物園の職員が言っていた。
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同じモチーフに繰り返し何度も言及するのは、ソノヒト自身にとって何が本当に大事なのかを分からせてくれるという点で意味がある。
だから、何度でも繰り返し言え!
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知性は炎に似ている。燃えているものがなんであろうと、炎というもの(すなわちプラズマ現象)のアリヨウは概ね同じ。
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知性を光に喩えるなら、人間の知性(生命現象に依存した知性)は薪を燃やして作る光だ。個々の人間は、光を放ちながら燃え尽きる薪である。一方で、生命現象に依存しない知性とは、薪を燃やして作る光ではなく、例えば、発光ダイオードでつくる光である。光を放つ発光ダイオード自体は、薪のような消耗の仕方をしない。
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生命現象依存型の知性が、生命をカケガエノナイモノとみなすのは、例えば野球選手が野球を、絵描きが絵画をカケガエノナイモノとみなすとの同じで、単なる主観である。客観的な事実ではない。言い換えるなら、知性にとって、生命はカケガエノナイモノではないし、必要不可欠のものでもない。生命がカケガエノナイモノなのは生命である。しかし、生命それ自体は、生命をカケガエノナイモノだとは認識できない。なぜなら、認識するのは知性だからだ。そして生命は知性ではない。
個々の生命体は、[生命現象という全体]の部分に過ぎない。故に、個々の生命(すなわち生命個体や生物種)の[生死/存亡]は、生命現象にとっては問題にはならない。例えば、クジラが絶滅してもアリが存在し続ければ、動物が絶滅しても植物が存在していれば、生命現象は「継続」しているからだ。
個々の生命の[生死/存亡]を問題にするのは、知性である。しかしそれは、生命が[失われるから/カケガエガナイから]ではない。[その生命に依存して存在している知性]が[失われるから/カケガエガナイから]だ。個々の知性は自らを[知性現象全体の部分]とみなすこと[ができない/をしない]。それはちょうど、個々の生命が自らを[生命現象全体の部分]として活動しないのと並行である。個々の生命の振る舞いは常に「我こそが生命の主」である。それがまた[進化の動力]でもある。