2020年11月1日日曜日

三木聡の『音量上げろタコ』を観た。


2020年11月1日 日曜日/晴れ


三木聡の『音量上げろタコ』を観た。前作の『俺俺』で三木聡の作る映画には見切りをつけたので、今作もまったく観るつもりはなかったのだが、ツキアイで、仕方なく観た。


で、始まっていきなり音が小さいのに驚いた。というか辟易した。すでに見た連中によると、そもそもそういう映画らしく、映画館でも「聞こえなかった」らしい。これは、おそらく、シンの「大声」や、きっと最後にふうかが出すであろう「大声」を際立たせるための、全編を通じた「前フリ」的な「工夫」だろうと思ったけど、とにかく、自分の耳に水が詰まったような感じでものすごく不快だった。音が小さいことが、ではなく、耳が詰まっている感じが不快なのだから始末におえない。俳優の発する声が、映画の中の環境音にかき消されるというか、巻き込まれる感じの音になっていて(意図的そうしているのだ)、その聞こえ方がすごく不快で、もう、映画の中身がどうとかいう以前に「ちょっと勘弁して」となってしまった。映画館で隣の奴が臭いとか、冷房が効きすぎとか、そういうのと同じ、生理的な不快さ。


もう少し音について言えば、多分、現実の環境での人間の言葉のやり取りを「そのまま」録音すると、この映画のような「聞きとりにくい」音になるのだろう。つまり、現実の世界は、思っている以上に「周りがうるさい」のだ。でも、人間の耳というか脳には、周りの環境音を「無視」して、自分が聞こうとしている相手の声を選択的に「拾う」能力があるので、特に不自由を感じない。ところが、現実の環境のままの音を俳優のセリフも含めて「そのまま」録音したものを「そのまま」スピーカーから再生されると、脳は「環境音を無視して人の声を拾う」ことができず(スピーカーから出ている時点で、全てがひとまとまりの音になってしまうので)、人が喋っているのが見えているのに声はよく聞こえないという「耳が詰まった不快な感じ」が生じてしまうのだろう。


で、そういう生理的な不快さに耐えながら観た映画の「中身」は「少し真面目なことを照れ隠し全開で言ってみた」という感じ。『ダメジン』以来の作品を見る限り、この監督には、作品に深みとか重みとかを出す才能は皆無なのだが、やっぱり年を取ってくると、普通の意味で「人の心を打つ」ような作品を作ってみたいと思うのだろう。結果、こんな感じの「そこそこラーメン」が出来上がってしまう。