2021年1月22日金曜日

ヴィンセント・プライス主演の『地球最後の男』(吹替版)を観た。

 2021年1月22日 金曜日/晴れ



ヴィンセント・プライス主演の『地球最後の男』(吹替版)をPrime Videoで観た。1964年の映画。後にウィル・スミス主演でリメイクされているし(『アイ・アム・レジェンド』)、それ以前にもリメイクされているらしい(『オメガマン』?)。そもそも原作小説があるという。


主人公ロバート・モーガン(ヴィンセント・プライス)は、「吸血鬼病」とでも言うべき伝染病で世界中の人間が吸血鬼になった世界で、3年間生き延びているただ一人の人間(じゃないか、と当人は思い始めている)。また、彼が伝染病に感染しないのは、昔コウモリに噛まれて免疫ができたからではないか、とも考えている(真偽は不明)。モーガンは科学者で、まだ人間が姿を消す前は、この伝染病の治療法を研究していた。


3年の間、モーガンは、吸血鬼が動き回れない昼間に、吸血鬼を退治し続けてきたのだが、実は彼らは、特効薬で吸血鬼病から「回復」した、謂わば[次の段階に進んだ人間たち」だった。つまり、この世界には、既に、吸血鬼病を患ってはいても特効薬を注射し続けることで、普通の人間のように昼間も歩き回れるし、鏡も怖くない(ただし、にんにくは無理)「新しい人間」と、薬で治療してもらえないせいでゾンビ状態になっている吸血鬼病の人間と、そして、そもそも吸血鬼病にかかってないしかからないモーガンという「特殊な人間」いたのだ。そして、モーガンは、「新しい人間たち」を殺して回る(悪い意味での)「伝説の男」として、「新しい人間」たちのコミュニティに(自分の知らないところで)恐れられていた。


最後、モーガンは「怪物」として、「新しい人間」たちの警察隊(軍隊?)に殺され、モーガンのとっての唯一の理解者だったヒロインが、近くで泣いている赤ん坊に対して、「もう怖がる必要はないのよ」と慰めたところで映画は終わる。即ち、実は、主人公の方が、社会を恐怖に陥れる「怪物」とみなされていたという、視点の逆転が最後に起きるのだ。


あと、伝染病の感染拡大防ぐために死体は焼かれてしまうのだが、とにかく「火葬」を嫌がる(気の毒がる)。ああアメリカだね、という印象。「最後の審判」のときに死体がないと困るらしいからね。


アクション場面などは、モッサリのんびりした感じだったけど、歌舞伎とかのアクション場面も似たようなものだし、それほど気にはならなかった。それよりも、人間が消えた街の様子が、今読んでいる『この世界が消えたあとの科学文明の作り方』の描写そのもので、面白かった。というか、そもそも、この『この世界が消えたあとの科学文明の作り方』に書いてあったから、この映画を観たのだけど。



宮藤官九郎脚本、長瀬智也主演の『俺の家の話』の第一話を試しに観た。宮藤官九郎のドラマは、登場人物たちが表層的なところでガチャガチャやってるうちは楽しく見れるのだが、ちょっと真面目なことを言ったりすると、途端にシラケてしまう。宮藤官九郎ってのは、家族とか絆とかを「ちゃんとしたい」という価値観の作家なので、そこが、俺とは合わない。


今回のドラマでも、25年音信不通だった長男である主人公が、父親の危篤を知らされたら当然のようにすぐに駆けつける、その展開にまるでピンとこない。展開ではない。そういう行動を極当り前に取る主人公に全く共感できない。更に、25年ぶりに「戻ってきた」長男に対する弟妹や父親の、「家族」というものに何の疑念も持っていない振る舞いには違和感しか感じない。こちら側から見ると、全員、まるで「家族教」の狂信者。親に認めてもらいたいとか、父親と一緒に風呂に入ったことすらなかったとか、「家族教」信者には大問題かもしれないけど、こちとら、そんなこと、どうでもいい。そんな「浅瀬」で、人間を考えたり、描かれたりしても、バカバカしくて観てられない。と思ってしまう。


宮藤官九郎のドラマって、浅く付き合ってるとすごくおもしろヤツなのに、なにかのはずみで少し真面目な話になったら、とたんに宗教のパンフレットとか出してきたり、真顔で自分は霊が見えるとかなんとか言い出したりするヤツに似てる。ああ、バカなんだ(賢そうでもこの程度か)と思っちゃう。