【メモ】
”経済学における「非代替性(ノンファンジブル:non-fungible)」とは、オリジナルのアート作品や、レストランで提供される食事のように「唯一性」があることを指す。一方で、「代替性」のある商品とは、金や豆の缶詰のように、同種の品物と交換できるものを言う”
”非代替性トークン(NFT)がオンライン上のあらゆる体験の中核を担うようになれば、ヴァーチャル世界と物理世界を結ぶ役割を果たすだけでなく、オンライン経済を根本から変える可能性がある”
(WIRED VOL.39 P118)
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『Dr.STONE』第2シーズン第3話「死者からの電話」視聴。監視役ニッキ―が仲間になった。
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今日の「山眺め」は大雪で真っ白。空も山頂も山頂の塔も何も見えなかった。しかし、こんな雪の中でもカラスはちゃんと飛んでいた。自然は水際立っている。感心した。
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@人間の意識にとって人体は「媒体」にすぎない。それは、音楽と楽器の関係にそっくりだ。音楽にとって楽器は「媒体」というよりは「装置」「手段」と言った方がより的確だろうが、まあ、そう違いはない。人間の意識にとって人体は「装置」「手段」であると言っても、さほどの違和感はないから。肝心なことは、音楽が楽器ではないように、人間の意識も人体ではないということ。楽器が床に転がっていても、音楽は聞こえてこない。床に転がった楽器は「死んで」いるからだ。楽器が「生きている」状態はは、言うまでもなく、演奏者によって演奏されるときだ。人体と意識については言うまでもない。
[根強い思い違い]が起きるのは、音楽も意識も、あまりにもそれぞれの「媒体」に依存しているから。依存度が高すぎて、ほとんど同一視してしまうのだ。しかし、現実に起きている現象を冷めた目で見れば、両者(音楽と楽器、意識と人体)は「全くの別物」である。楽器も人体も、所詮はただの物体である。一方、音楽と意識は[体験それ自体]である。
面倒なのは、媒体に対する依存度があまりにも高すぎる「副作用」で、「演奏することが音楽」「生きていることが意識」という[決定的に誤った]認識が生まれてしまうこと。ひっくり返したほうが[決定的に誤って]いることがよりわかりやすくなる。すなわち、「音楽とは演奏すること」「意識とは生きていること」。そう、どちらも完全に間違っている。「音楽=演奏」が誤りであることは簡単に分かる。しかし「意識=生きている」が誤りであることは、つい最近までほとんど人間には気づけなかった。意識は「生きている」必要はないということがどうしても理解できなかった。「死後の生命」「肉体は死んでも魂は生き続ける」などの言い草はその証。正しい認識は、「現在地球上に暮らす我々ホモサピエンスの意識に限って言えば、自身の身体が生きていなければ存在できない」というただそれだけ。