2021年1月9日土曜日

エハラマサヒロの歌ネタが面白くないのは、ネタにしている歌手の歌い方などの「特徴それ自体」を「笑えるもの」と勘違いしているから

 2021年1月9日 土曜日/晴れ

『ゴッドファーザー』(吹替版)をPrime Videoで観た。多分2周目。随分前に観た1周目は字幕版だったと思う。やっぱり、筋を知らないか殆ど覚えていない映画は吹き替えで見たほうが、物語の「臨場感・リアルタイム感」が断然イイ。文字(字幕)なんか読んでると、映像とセリフの一体感がぶち壊しになるから。


それにしてもイイね。この手の映画は、もう、これがあるからあとは要らんでしょう、と言えるくらいイイ。またすぐに観たくなるくらいイイ。


あと、『ジョジョ』の第5部のラストの場面は、完全にこの『ゴッドファーザー』のラストを引用してる。



一番最初の『カイジ』の限定ジャンケンのところを今読んでいる。カイジと古畑と安藤の三人が、対戦相手のすぐ近くで色々と話し合ってて、大丈夫かよ、と思っていたけど、限定ジャンケンが終わったときに、「語り」が会場中に大音量の音楽が流れていたことを思い出させてくれたて、「ああ、そう言えばそうだった」と納得した。



『クセが強いネタGP』のエハラマサヒロの歌ネタが面白くないのは、ネタにしている歌手の歌い方などの「特徴それ自体」を「笑えるもの」と勘違いしているから。先週の竹原ピストルのネタも、単に竹原ピストルならきっとこんなふうに歌うだろう、というそのまま。観ている者も、確かにエハラマサヒロがやったとおりになるだろうね、と思うが、だからと言って大爆笑とはならない。なぜなら、なにより、本物の竹原ピストルが歌っているのを観たり聴いたりたりして、無条件に大爆笑する者などほとんどいないからだ。ほとんどの人は、その歌い方を、その歌手の「個性」や「表現方法」として、(好き嫌いは別にしても)「好意的」に受け取る。腹を抱えて笑う対象としては受け取らない。なのに、エハラマサヒロのネタでは、他の人が「好意的」に受け取っているそれをそのまま「笑う対象」にしてしまっている。だから、笑えないのだ。なぜか「不快」になるのもそれが理由。


一方で、狩野英孝や先週最後に出てきて大爆笑をかっさらっていった某のネタは、クセのある歌唱法や踊りや決めポーズを「一般化」した上でデフォルメしている。みんながどこかで観たり聴いたりして「一歩間違えばおかしなことになるよね」と思っている歌唱法(竹原ピストルのもそう)や体の動きを、あえて「一歩間違えさせて」面白くしている。だから、大爆笑になる。重要なのは「でも、現実にはそんなヒトはいない」と思わせることができていること。


まあ一言で言えば、エハラマサヒロのネタは「戯画化」が不十分なのさ。普通に大真面目に描かれた本人そっくりの肖像画を人々が指差して笑う状況を想像してみればわかるだろう。そこに「愛」はないよね。