2021年2月16日火曜日

現の虚 2014-7-5 棘の藪と真鍮の潜水服と白い手とオランウータン

水底の林を抜けて少し歩くと、棘の藪に行く手を阻まれた。しかも、ちょっと回り込めばどうにかなるような薮ではない。こういう場合、フツウの水中なら薮の上を一気に泳ぎ越せばいいだけだ。だが、この水底では泳ぐことができない。体に全く浮力を感じないのだ。空気の代わりに水があるだけの違い。他は地上と何も変わらない。きっとこの水は、本当は水ではないのだ。水よりも、人間の体よりも、ずっと密度の小さい別のナニカで、だから人間の体に浮力が生まれず、僕も鉛人間のように水底を歩くしかないのだ。

つまり僕は、棘の薮を歩いて突破しなければならない。

やってみた。
痛い。無理。

枝をつまんで、引っかかった棘を服から一つずつ外し、一旦退却した。

藪の少し離れた所から白い手がヌッと出た。女の手。
僕は男だからすぐそう思う。

手が手招きをする。

僕は手の方に歩く。手が止める。僕は立ち止まる。手が、指をパチンと鳴らして指さす。大きな箱があった。だが鍵が掛かっている。すると手が、今度は僕のポケットを指さす。探ると鍵が出て来た。それを箱の鍵穴に差し込んで回す。開いた。中にはぴかぴか光る真鍮の潜水服が入っていた。服というか鎧。手が、着ろと促す。一人で着られる代物じゃない。手が指さす。遠くからナニカがウオウオ云いながらこちらに向かっていた。デカイ猿。あの感じはきっとオランウータン、森の人だ。

あっという間に僕のいる所までやってきたのは、やっぱり森の人だった。森の人は、万事了解済みという感じで箱から潜水服を取り出す。僕は森の人の手を借りて潜水服を着た。潜水服の丸い覗き窓から、手が「やったぜ」と親指を上げるのが見えた。森の人も、やっぱり親指をあげて、ウオっと云った。僕も、潜水服の手で親指を上げてみせる。それを、三人というか、三匹というか、まあ、全員で三回ぐらいやる。

手が、もういいだろう、と指を鳴らした。それから、こっちだ、と人差し指をクイクイやって、藪の中に引っ込んだ。僕は、森の人、つまりオランウータンにお礼かナニカを云いかけて、猿に分かるわけがないと思ってやめた。

真鍮の潜水服を着た僕は棘の藪に突入する。振り返ると、森の人はちょっと心配そうだった。僕は親切にしてくれた動物を安心させるつもりで、さっきの親指の「やったぜ」をやってみせた。森の人は親指を立て、体を上下に揺すった。

僕は、真鍮の潜水服のおかげで棘の藪の中をバリバリ進めて愉快だ。