2021年2月4日木曜日

地球人類の「すごろく」の「あがり」

2021年2月4日 木曜日/晴れ・寒し

NHK+で『BS1スペシャル/欲望の資本主義2021』の前編を観た。

オープニングでいきなり、やくしまるえつこが「私たちはどこでどうまちがえたのだろう?」とナレーションするが、この問いかけ、つまり、発想自体が、そもそも「まちがい」。資本主義には、原理的に「まちがい」などないのだ。というか、共産主義にも、ファシズムにも、社会主義にも、原理的に「まちがい」はない。


資本主義は、人類が未来に向かって歩き進む、その「歩き方」くらいの意味合いしかない。共産主義にしても、ファシズムにしても同じ。それらは「歩き方」の種類であり、「歩き進む」という機能を実現している点で同等。良いも悪いもない。


たしかに、歩き方の違いで、遭遇するトラブルは変わる。靴擦れができやすかったり、膝を痛めやすかったり、しょっちゅう休憩を入れる必要があったり。しかし、肝心なことは「歩き進む」ことであり、それが実現できているかぎり、その歩き方に「まちがい」は起きていない。繰り返すが、前進し続けられるなら、「トラブル」は起きても構わないのだ。目的地に向かって進んでいるなら、その過程で起きることをいちいち深刻ぶっても、そんなの「自己満足」かつ「時間の無駄」。


目的地? もちろん「人類の明るい未来」のことだ。


何度でも書くが、人間が最終的にたどり着く未来は「自発的絶滅」である。これは暗い未来ではなく明るい未来。究極のハッピーエンドだ。


人工知能型の機械(群)に、今、生身の人間が行なっている全ての社会活動を引き継がせ、いわば「第二の自然」を構築する。人間たちは、この「第二の自然」の恩恵を「無料」で受け取って(しばらくの間は)生き続ける。ちょうど、森の木の実をリスが「無料」で受け取って生き続けているのと同じ状態。だから、今言うところの「労働」を人間はしなくなる。食うために働く必要がなくなるからだ。


で、途中は飛ばして


だからと言って、未来永劫、人間たちが地球上にのさばるわけではない。人間存在の本質は生命ではなく知性なのだから、生物としての人間は、いずれ「用無し」となる。いや「用無し」以上の「邪魔者」となる。何に対しての邪魔者なのかと言えば、人間の次の高等知性生物(タコ?ネコ?カラス?)の出現にとって邪魔者なのだ。(かと言って、人間は、全宇宙に進出することもしなくていい。他所に行っても、生命である限り、迷惑をかけることはわかりきっているからだ。全宇宙に進出する知性は、人間が作り上げた「生命ではない媒体」に「乗った」知性がいい。まあ、今の一番わかりやすいイメージでいうなら、人工知能機械だろう。しかし人型である必要はない)


もっと具体的に言うと、知性の媒体として[生命以外の媒体]を作り上げることができた時点で、人間型知性は、全てこの新しい媒体(より「堅牢」で「永続性」があり、「自然淘汰の呪い」を受けてない媒体)に「乗り換える」ことになる。というのも、知性にとって[生命という媒体]は、とてつもなくコストパフォーマンスが悪いからだ。人間の場合なら、ほぼ百年で、百年間の積み重ねがパーになる。ある人間の知性の百年分の積み重ねを「生かそう」と思ったら、教育とか書物とかの「第三の媒体」によって、他の「まだ生きている」「これから生まれてくる」人間の知性に[伝え/教育]しなければならない。それでも、百年積み重ねた知性それ自体が引き継がれるわけではない。まるでこれは、アインシュタインの相対性理論や、ゲーデルの不完全性定理や、あるいはドーキンスの名著『利己的遺伝子』や、ホフスタッターの名著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を、口伝で伝え続けるようなものだ。そこには、[まどろっこしさと危なっかさ]しかない。本があれば、文字があれば、と思うだろう。


「自発的絶滅」とは、要は、繁殖を自発的にやめることだ。殺しあうわけでも、自殺するわけでもなく、ただ、利己的な遺伝子に究極の叛旗を翻すだけのこと。


寂しい?


そんなことはない。生命以外の媒体が既にある。だから、それ以降に死んだ人間の知性活動は、その新しい媒体上で継続させることができる。つまり、肉体は死んでも、「その人」は死なないのだ。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、それに近いことは、今でもやっている。たとえば、漱石の書いたものを読めば、百五十年以上前に死んだ人間の知性に触れることができる。もっと言えば、「漱石に実際に会って話を聞いた」くらいの感覚(誤解/幻想)を持ったりする。


あるいは「イチから」知性を作り出すこともできる。生き物としての「子供」は生まれないが、新しい「知性」は「生まれる」。そして、人間にとって本当に大事なのは「知性」である(死んでミイラになった子猿を抱えている母ザルは「悲しい」が、決定的に「愚か」であることが我々にはわかるよね?)。


何の話だっけ?


そう、だから、「自発的絶滅」という究極のハッピーエンドにたどり着けるなら、「歩き方」は資本主義でも社会主義でも共産主義でも構わない。「うまくいく」ためには、どうせ、なんども、[そういう色々な「歩き方」が混ざり合ったもの]になっていくのは分かりきっている。時間の経過にそって、資本主義的共産主義とか、ファシズム的資本主義とか、社会主義的民主主義とか、なんだかよくわからない、種類の多すぎる色鉛筆みたいなことになって、でも最終的には、[人工知能型機械群による「第二の自然」の実現→「労働からの解放」→「自発的絶滅」]で、地球人類の「すごろく」は「あがり」。