2021年2月16日火曜日

『VHSテープを巻き戻せ!』原題「REWIND THIS!」を観た。

2021年2月16日 火曜日/風強い


『VHSテープを巻き戻せ!』原題「REWIND THIS!」をPrime Videoで観た。VHSビデオマニアたちが、VHSの形で夜に出回った映画について語るドキュメンタリ。日本の「Vシネマ」や、「攻殻機動隊」の押井守なども出てくる。しかしまあ、全体の印象は、BS放送とかでやる、他愛もないオタク向け番組。ひとつ印象に残ったのは、大手映画会社は、物理的なメディア(VHSやDVDやブルーレイ)の消滅を望んでいるという指摘。というのも、このままネット配信などが主流になれば、映画会社は自分たちが権利を持っているコンテンツの流通を中央集権的にコントロールできるようになるから。具体的に言うと、或る作品の値段を釣り上げようと思ったら、江戸時代の米問屋のように、配信を一時的に休止して、需要の高まりを待てばいいのだ。そのコンテンツを収めた物理的な媒体が人々の手元に残っていないなら、そういう「非民主的な」商売ができる。なるほどね、と思った。



§º消耗品という概念は、偏に、人間という生き物の寿命の長さに拠る。一兆年の寿命を持つ存在にとっては、太陽ですら消耗品である。だから昔、村上龍の『すべての男は消耗品である』の意味がイマイチピンと来なかった。だって、この宇宙に[消耗品でないもの]なんてない、と思っていたから。



§ºいわゆる「トロッコ問題」は、問題ですらない。線路を切り替えないという選択や、太った男を橋から突き落とさないという選択は、結局のところ「傍観者の立場をとる」ということであり、それは、「トロッコ問題」の当事者の立場から身を退くという選択だからだ。これを逆から言えば、「トロッコ問題」の当事者の立場に立つなら、必ず、切り替え機は切りかえるし、太った男は突き落とす。「切り替えない」「突き落とさない」という選択をした時点で、「トロッコ問題」を試される人間は消えて、傍観する人間が現れる。


この世界には、現に、数えきれない数の「トロッコ問題」が存在しており、我々は、そのほとんど全てに「参加」しない。猫嫌いの夫と別れて保護猫の里親にはならないし、仕事を辞めて地球の裏側に井戸掘りにも行かない。「知らないから」という場合もあるし、「知っていても」という場合もある。


「トロッコ問題」の本当の対立は、「トロッコ問題」を問題だとみなす人間と、そんなものは問題ではないとみなす人間の間に存在する。最初に言った「線路を切り替えない」「太った男を橋の上から突き落とさない」という選択は、その方が「正しい」からそう選択するのではなく、そういう状況に関与しないという立場からそう選択する。飢えたトラに襲われている鹿を助ける手段を持っていても、飢えたトラの狩りの邪魔をしないのは、それが正しいからではなく、ただ関わらないだけなのだ。


「トロッコ問題」が問題になりうるのは、選択を迫られる人間が、選択の結果の利害の外にいるときだけだ。もっと具体的にいうと、選択を迫られる人間が、結果がどっちに転ぼうが究極的には「どうでもいい」立場にいるからだ。だから、もしも、線路を切り替えることで自分の子供が助かるなら、それは全然「トロッコ問題」にはならない。選択した結果によって、自分の子供を失うか、取り戻すかだからだ。これは、もはや「トロッコ問題」の問題ではなく、その人自身の「利害」の問題である。