右手に限らず、体の一部を切断されたのはこれが初めてだ。傷はもっと痛むのかと思っていたが意外なほど全然痛まない。クスリが効いて痛まないのかと看護師に訊いたら、そうじゃない、やっぱりアンタはフツウより痛がらない、と云われた。痛みを感じにくいタイプなんじゃないかしら、そういう人は時々いるから、とも云われた。それよりも傷の回復力のほうがフツウじゃないわね。タコ顔負け。さすがに新しい手が生えてくる様子はないけどさ。
ツマリデスネ、と、6年前に服毒自殺したという若い男の医師が俺に云う。痛みというのは結局、実体のないものなのです。解釈ですからね。脳の解釈です。痒いとか熱いとかそういうものと実は同じで、脳のさじ加減でどうにでもなりうる。ゲンリテキニハ、ですよ。しかし、傷の回復というのは、コレ、現実です。事実の積み重ねが実績となって結実するものです。そういう意味で云うと、アナタの右手首の傷の治り方は尋常ではない。異常です。
真夜中。宿直でもない若い男の医師(故人)は、両目から血を流しながら、しかし、冷静に説明してくれる。頬を下って顎から落ちる赤い涙が、俺のベッドのシーツの上にぽたぽた落ち、落ちる片っ端から蒸発するみたいにきれいに消える。
僕はアナタを研究してみたいのですよ。アナタの体質はただごとじゃアない。アナタの体に備わったこの異常な回復力の謎を解くことが出来たら、これは、人類にモノスゴク大きな恩恵をもたらす。遺伝子レベルのことなのか、共生している未知のスーパー微生物でも存在するのか、今のところまったく見当もつかないけれど、理由はあるはずなんです。ゼヒ研究させて下さい。
6年前から死んでいる若い医師は、時々ひどく咳き込みながら、書類を挟んだバインダーを俺に差し出す。研究に協力するという同意書らしい。署名しろと、胸のポケットから万年筆を抜く。
だが、俺にはその万年筆が使えない。いくら掴もうとしても指を素通りしてしまうからだ。俺はそのことを説明するが、若い医師には通じない。いや、決してご迷惑はおかけしませんからゼヒ、と見当違いのところで食い下がる。
もし俺にその万年筆が使えて、この死んだ若い医師に協力する同意書に署名が出来たら一体どういうことが起きるのか、興味がないわけじゃない。だが、協力は無理のようだ。
その時、巡回の看護師が来て、病室を懐中電灯で照らす。
研究熱心な若い医師の姿はもうどこにもない。