2021年2月23日火曜日

現の虚 2014-7-8 手の石が作動し全ては吹き飛ぶ

円形の暗い部屋をぐるりと取り巻いた青い照明の巨大水槽。その中を深海鮫ラブカがゆるりゆるりと泳いでいる。こんな水槽で深海生物が飼えるとは意外だ。

そうではない。我らが深い水の底にいるのだ。(嗄れ声が云った)

ラブカが泳ぐ青い水槽の前。車椅子に座った老人のシルエット。嗄れ声の主だ。

モーターの作動音がして、車椅子がゆっくりキリキリとこちらに向かって移動してくる。近づいてくる車椅子の上で、老人がぼうっと光る目で僕を見ている。僕の指先にある煙草の灰が、すでに伸ばせるギリギリまで長いのが気に入らないのかもしれない。

車椅子は僕の目の前まで来て止まった。人間の干物のような老人。ホウイホウイと聞こえるのは、その干物老人の呼吸音だ。歯のない口を開け、人生最期の空気を執念深く吸い込み続けている。僕の煙草の灰はまだ落ちない。そしてラブカは、相変わらず、僕らを取り囲む水槽の中をゆるりゆるりと泳いでいる。

瀕死の老人は、真空を進むようにすうっと腕を伸ばして、僕の指から長い長い灰の伸びた煙草をそっと摘み取った。そしてその長い長い灰を落とさないまま上手にくわえ、深く一服すると、竜のような長い長い煙をふすーっと吹き出した。

煙はゆらゆら伸びて空中で次々に文字に変わっていく。

生まれ〜飲み〜食べ〜排泄し〜成長し〜生殖し〜愛し〜愛され〜憎み〜憎まれ〜敬い〜敬われ〜疎み〜疎まれ〜尊び〜尊ばれ〜蔑み〜蔑まれ〜学び〜教え〜働き〜怠け〜育てられ〜育て〜決断し〜留保し〜誤らず〜誤り〜勝ち得て〜取り逃がし〜主張し〜譲歩し〜発見し〜見落とし〜負傷し〜治癒し〜倒れ〜立ち上がり〜喜び〜怒り〜哀しみ〜楽しみ〜何より〜慈しまれ〜慈しみ〜そして〜生き延び〜生き続け〜今日まで生き〜

煙はそこでふっと消え、瀕死の老人の摘んだ煙草の先から、さっきより更に長くなった灰がぽとりと落ちた。老人は僕に煙草を返すと、僕の耳元に口を近づけ、例の嗄れ声で云った。

ダカラナニ?

それを合図に、老人の車椅子の下に異臭を放つ液体が勢いよくジョボジョボと溜まり始めた。更に老人は、自分の尻の下から取り出したクサいモノを歯のない口に押し込んで、クチャクチャと音を立てる。

僕はその音とニオイに圧倒され身動きできない。

だがその時、僕の猫が僕の足に頭をこすりつけた。僕の猫は僕の靴で、僕は靴ひもを締め直すと、足元にあった石ころを右手で掴んだ。

そして右手の石が作動し、全てを吹き飛ばす。