2021年2月23日火曜日

現の虚 2014-7-9 ニャアと一声。これでおしまい

壁か床か何かに背中が貼り付いていて少しも動かない。腕も脚も同じように貼り付いて動かない。目を開こうとすると、なぜか胸の裏の背骨が痛む。瞼の下で目玉を動かすだけで頭の芯が疼く。イメージの中で思い切り叫ぶと、弾みで両目が開いた。

青空。旅客機が腹を見せて通り過ぎる。
いい天気だ。

俺を挟んで向かい合ってしゃがむ二人の顔を、俺は真下から見ている。一人は女で、一人は男。閉じかかる瞼をなんとか持ち上げ、目を開け続ける俺。瞼がピクピクして、これじゃあまるで死にかけてるみたいだ。

男と女の会話。

飛んだか?
知らないわ。
それとも落ちた?
さあ?
ほら、右手がない。
途中でどこかにぶつかけてちぎれたんでしょ。

女は携帯端末を取り出し俺にレンズを向けた。

撮るの?
写真売れるかもしれないから。

突然の強い光に目がくらむ。瞳孔の一瞬の収縮とゆるやかな開放。俺の目を覗き込む男。目が合う。だが、男は俺を無視して女に訊く。

脳波に変化はあるかね?
いえ。ベジタブルです。

俺の鼻の穴のチューブの具合を確かめる女。目の裏に激痛。だが、俺は身動きできない。体を固定しましたからね。でも、すぐ病院ですよ。と赤い横線の白いヘルメット。

病院なんか今更。

そうじゃない。病院に運ぶのは単なる職務上の形式。人間を動かすのは意味じゃなく形式さ。

俺はきっと頭をやられてる。自分では見えないから何とも云えないけれど、頭から脳味噌の一部が飛び出していて、目玉を動かす度にその、はみ出た一部が動いて何かに擦れるから、それで脳に更なる損傷を受けるのだ。

まあ、いいから飲めよ。

ビールを注ぐ知らない顔の同僚。虫の話を始める。あの小さい虫はすぐに脳に群がる。真っ黒のあの虫。人間の脳だけを食って生きてるあの虫さ。古い墓を掘り返した時に出てた頭蓋骨の中に何万といるのを見たことがある。オマエの脳がそんなむき出し状態なら、あの虫がすぐに集まってくるはずだろう?

その話を顔が口だけの医者が笑う。なるほど。でも、とりあえず息はしなきゃ。でないと死ぬよ。

ところが俺は息の仕方を思い出せない。そもそも…
そもそも?
そもそも一度も習ってない!

猫は高層マンションのはめ殺しの窓から、下界の駐車場に横たわる俺(もうすぐ死ぬ?)を見ていた。猫は魔女とも死神とも通じている。猫の好奇心は、死に引き寄せられ、死を引き寄せる。全てを見届けたら、猫は窓辺を離れ、いつもの場所でのんびりと毛繕いを始めるのだろう。