2019年6月28日金曜日

アナトー・シキソの「アリとキリギリス」


「本当はキリギリスじゃなくて、セミだけどね」とアイツは云った。

大雪の夜、赤茶けたコートを羽織り、真っ黒いマフラーを顔まで巻いて、大きな帽子の広いツバの下に目だけを光らせてアイツはやって来た。腹が減ったという。金もないし食料もない。なんか食わせてくれないか、と。働かないから金がないのは当然だ、とオレは云った。するとアイツは、イヤ、働かないんじゃない。僕は充分働いている。ただ、稼げてないだけだ、と反論した。どちらにしろ食えることをして来なかったオマエが悪いのさ、とオレは云った。

だが、家には入れてやった。このままオマエを追い返したらまるっきり「アリとキリギリス」だからな、と云ったオレに対してアイツが返した言葉が冒頭のセリフ。

「ヨーロッパの南の方にいたセミが北の方にはあまりいなかった。だから、あの話が南から北に伝わったときに、セミがキリギリスになった。その北版がこの国に来た」

どうでもいいよ、とオレ。冷蔵庫を開けると魚肉ソーセージが二本入っていたので、一本を自分用に、もう一本をアイツ用に出した。さらに、本棚の奥にジャックダニエルごめんなさいがあったので、それを引っ張り出して中身を調べたら、瓶を傾けて正三角形が出来るくらいは残っていたのでそれも出した。

オレは気前がいい、と自分でも思う。

アイツはストーブの真ん前に陣取って、帽子も取らずコートも脱がずマフラーさえ巻いたまま、腕組みして椅子に腰掛け、体中にこびりついた雪を溶かしている。オレは、アイツの前に丸テーブルを引いて行き、その上に魚肉ソーセージを一本と、ジャックダニエルの瓶とグラスを二個を置いた。アイツはそれをちらりと見て、また口を開いた。

「どうでもよくはないさ。これは昆虫学的な大問題だ。つまりね、セミがキリギリスになってしまうと、あの寓話は成立しなくなる」

オレは自分用の魚肉ソーセージを袋から取り出し、ビニールの皮を剥いてピンクに着色された魚のすり身を一口齧った。これは人間用のペットフードだ、と思う。好意的な意見として。二個のグラスにウィスキーを注いで、オレは自分だけさっさと先に飲み、どうして成立しないんだ、と訊いた。

「どうしてもこうしても、木の汁を吸うセミなら食料を恵んでもらわなければ、確かに冬は乗り越えられんだろうが、キリギリスは雑食だ。アリの家に辿り着いたら食料なんて恵んでもらう必要はない。まずは目の前のアリを食えばいい」